(1)
あの人を初めて見たのは入学式の日だった。
体育館での入学式を終えて渡り廊下を歩いていると、どこからとなく桜の花びらが舞い散ってきた。今年の桜ももう終わりだ。校庭にあるほとんどの桜の木には花がわずかにしか残っていない。
散りゆく花びらの中に、穏やかな春風に黒髪を靡かせ、ゆっくりと歩く人影があった。
一瞬だけこちらを振り返ったその表情がどことなく切なそうで、憂いを浮かべていたのが印象的だった。
その人が、3年の先輩で、筝曲部の部員だということを知ったのは数日後。新入生歓迎行事のひとつ、部活の紹介で、琴の演奏をしていたひとりが彼女だったから。
名前を、なんというんだろう。
「柏木、お前やっぱりサッカー部なんだろう?」
「ああ」
俺は小学生の頃から当たり前のように続けているサッカー部に入部を決めた。
「ここってけっこう変わった部活がいっぱいあるよな」
友人のひとりはまだ迷っている様子だった。
確かに、部活の紹介を見ていて驚いた。かなりマイナーと思われる活動もたくさんあって、それだけ選択肢があっていいのかもしれないけれど、何に入っていいかわからず迷う生徒も多くいた。
というのはこの高校では1年生のみ部活動が義務づけられているからだ。
安易に帰宅部に、と考えていたような生徒にとってはかなり悩ましいことなのだろう。
「仮入部とかしてみればいいんじゃない?」
俺は軽く言ってみたが、かなり他人事だった。
「なあ、柏木も付き合って!」
「はぁ?」
友人の頼みにノーと言えなかった俺は、放課後にいろんな部活に顔を出してみるという友人に付き合わされる羽目になった。
「いったいどういう部活がいいわけ?」
「かわいい子がいっぱいいて、活動も楽で、負担にならないようなのがいいな。」
「なんだよ、それ」
明らかにやる気のなさそうな返事に半ばあきれ返る。
そんな人間を部員にしたいと思うようなところなんてあるんだろうか、とさえ考えてしまう。
「えーっとまずはじめに、マンガ研究部、映画研究&製作部それから園芸部・・・囲碁、将棋とか?華道部なんかもいいか」
「その共通点はなんなんだよ」
「楽そう。華道部は女の子だらけっぽいし」
あまりに不純な動機すぎる。
しかし、こういう単純な思い込みは、見学してみて一掃されることになる。いい加減に活動している部活はひとつもなく、先輩方は皆それぞれ真剣に部活の説明をしてくれて、活動内容もしっかりとしていて、部員はそれぞれ役割等を抱えているようだった。
軽い気持ちだった友人もだんだんいい加減な気持ちでは入部してはいけないのだということに気づいてきたようで、口数が少なくなっていた。
「囲碁・将棋と華道部は部室も隣なんだ。3階のこの辺りって日本の伝統的な部の部室な感じかな?」
俺は校内地図を眺めながら、隣の友人に話しかける。
「華道部、囲碁・将棋部・・・どっち先に行く?」
すっかり元気のなくなってしまった友人ははぁ・・・と大きくため息をついていた。
その様子を眺めながら、一体こいつは高校に何しに入ったんだろうという気持ちになってしまう。
その時、がらり、と扉が開く音が聞こえた。
「あれ、新入部員?」
明るい笑顔を向けられ、俺は一瞬固まった。
この人は。
そうか、ここは華道部の部室で、茶道部も筝曲部も同じ部室を使っていると、確かに書かれてあった。
「いえ、僕たちは見学に」
「ということは囲碁・将棋の方?」
「はい。あと彼は華道部にも興味があるそうなので」
「あ、そうなの?じゃあどうぞどうぞ。女の子が多いけど、茶道部には男の子もいるのよ」
にこやかにそう言われ、戸惑う友人の背中をどんっと押した。友人には軽く睨まれたが、自分で言い出したことだろ、と俺はそ知らぬ顔をした。それよりも、俺の目を捉えて離さないのは目の前にいるこの人だけだ。
間近で見る彼女は綺麗だ、と思った。
3年生というだけだって、どこか余裕を備え、大人びた仕草が余計に心惹かれた。
「さわい先輩」
と彼女は呼ばれていた。
そして、同じく3年の先輩からは「ことね」と呼ばれていて、俺は初めて彼女のフルネームを心の中で唱えてみた。
さわい ことね
どういう字を書くのだろう。
そう思っていると、華道部・茶道部・筝曲部の活動の詳細の書かれた冊子を渡された。
「あ、僕は・・・」
サッカー部に入部届けをすでに出している、とはさすがに言えず、おとなしく友人と一緒に受け取った。
「いつもね、3つの部活は同じ部屋だから、みんな和気藹々と楽しく活動してるの。華道部員であってもお茶を立てたり、琴を弾いたりもするし、コンクール前はさすがにできないけどね」
「へえ・・・」
「お隣の囲碁・将棋部の人たちや、弓道部や剣道部ともつながりは多いから、男子でも気圧されなくなると思うよ」
緊張気味の俺たちを気遣ってか、彼女は優しくそう教えてくれた。
「ことねー、いる?山ちゃんが探してたよ」
「え。今度はなんだろ・・・」
呼ばれて少し困ったような表情の顔がまた可愛らしいと思えた。俺たちに向き返ると申し訳なさそうに、手を合わせた。そして後ろに控えていた女子のひとりに振り返ると、軽く手を振った。
「じゃあ、ごめんね。わたしは行くね。あとよろしくねー」
「はーい、新入部員ゲットのために励みます!」
おそらくは2年の先輩なのだろう、と思われた。
中学の頃から先輩後輩の序列を経験してきた俺からしてみれば、こんな雰囲気は意外に感じられたけれど、文化系の部活動ではこれが普通なのかもしれないと思い直した。
それから俺たちは2年の先輩からひととおりの説明を受け、その部室を後にしたのだった。
それが、沢井琴音先輩への淡い恋の始まりだった。