【サクラの木】第3話 夏休み - 3/3

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それからというもの、わたしたちは時々図書館で顔を合わせるようになった。だからといって特別な会話を交わすことはなく、ただ挨拶をして、そのままお互い勉強をする。

そんな夏休み、わたしは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をもう一度読み直していた。小学生の頃、児童書で読んで、賞をもらった作品だけれど、実のところよく理解できないことも多い作品だったから。

この作品の『幸い』という言葉のもつ意味について一度書いてみたかった。いろんな出版社から発刊されているので、いろんなものを読んでみた。宮沢賢治自身が残した言葉の『永久の未完成これ完成なり』その言葉どおりの未完成の作品だけに、すべて記されているものもあれば、一部分カットされていたりするものもある。

 

その日も図書館で勉強の合間に息抜きで本を読んでいた。

 

「沢井さん、宮沢賢治にするの?」

わたしの手元の本に視線を移して河野くんが隣に座った。

「うん。河野くんは?」

「俺は夏目漱石の『こころ』」

「さすが・・・」

 

『こころ』は夏目漱石の晩年の作品で、人間の罪悪感が描かれていてわたしも読んだことがある。でもこの作品をテーマにするのは、わたしの中では結構抵抗があるというか、難しい。

河野くんにとってみたら宮沢賢治なんてある意味児童書みたいなものなんだろう、と少し恥ずかしく思っていると、

 

「宮沢賢治って不思議だよな。独特の世界観があるっていうか」

 

そんな風に話を続けてくれた。

 

「宮沢賢治といえばさ、沢井さん、小学生の頃、教科書の『やまなし』のところにらくがきいっぱいしてたよね」

「え!?な、なんで知ってるの?」

 

ていうか、なんでそんな話題が今こんなところででてくるの?!

わたしがあまりにも動揺していると、河野くんはクスクスと笑い始めた。

 

「放課後教室で一緒に勉強してたとき、偶然見たことあって、けっこう印象的だったから」

 

放課後教室は、学童保育と同じようなもの。わたしたちが住んでいる田舎では学童保育というのがなくて、学校の教室が放課後開放されていて、両親が共働きだったり、シングル家庭の生徒が居残りできるようになっていた。もちろん先生たちが交代で教室にいてくれて宿題や勉強を見てくれていたのだ。

みんな夕方5時くらいまでは校庭で遊んで、5時以降は保護者の迎えがないと帰れなくなるので、教室で待っている子が多かった。

両親が共働きだったわたしも河野くんも放課後教室でいつも一緒だった。そして、家が近くだったこともあって、わたしたちはいつも5時になると同じグループで下校していた。

 

「印象って、下手すぎだったからじゃない?」

「違うよ。あの絵、俺の中の『やまなし』のイメージどおりでさ」

 

あのとき、教科書の挿絵がわたしはあまり好きではなかった。だから、授業中、わたしの頭の中の『やまなし』のイメージをそのまま教科書に描きこんでしまったのだ。

それを見られてしまってたとは。

でも・・・、なんだか嬉しかった。

 

「沢井さんて、プレッシャーとかない?」

「え?」

「なんか作品を出せば賞をもうらうのが当たり前みたいに思われて、こうやっていつも出せ出せって言われてさ、入選しなかったらどうしようとか」

 

河野くんでもそんな風に思うことがあるんだと思うと、どこか意外で、でもどこかでホッとする。

 

「もちろんあるよ。だから中学のときとか夏休みの課題とかすっごい嫌だったし。でも高校になってからはあまり思わなくなったかも」

「なんで?」

「山ちゃん先生にね、そんないつもいつも満足のいくものばかりじゃないから無理です、とか言ってみたことがあって」

「先生、なんて言ったの?」

「そんないつもいつも入選ばっかされたらこっちも困るから、たまには落選しろって言われたの」

「あははは、まじで?」

 

それで気が抜けちゃったんだよね。

 

「沢井さんて山岸先生に期待されてるよね」

「そうかなぁ」

 

そういうのとは違うと思うけれど。

 

「仲いいじゃん」

「2年も担任だったし、筝曲部の副顧問だから、1年から顔なじみだし。話しやすいだけだよ」

「へー、筝曲部の副顧問なんだ」

「うん。正式には華道とか、書道とか、そういう伝統系の部活の総顧問?なのかな」

「初めて知った。そっか、だからかー」

「なにが?」

「いや、なんでもない」

 

河野くんは妙に納得したように頷いた。

わたしはよくわからないけれど、河野くんと会話をする楽しさを改めて感じていた。きっと小学生の頃から知っているという安心感もあるんだと思う。

あっという間に時間が過ぎて、一日が終わる。

夏休みは、ほとんど学校と図書館で時間を過ごして終わった。けれど、心は晴れやかで、勉強に追われていてもそれすらどこか楽しいと思った。それが河野くんのおかげだということに気づいていたはずなのに、それを心のどこかで認めたくなかったんだと思う。

もし、河野くんを好きになったとしても、わたしの恋は実るはずないと、最初から決め付けてしまっていたから。

 

夏休み明けの模試では予想よりもいい結果が出て、山ちゃん先生からは志望大学のAO入試の話をもらった。