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受験生といっても1学期は夏の最後のコンクールに向けて、わたしたち筝曲部は練習に励んでいた。
たかが部活、されど部活。ずっと憧れていた和楽器の世界。
亡くなった祖母がどこかのお茶会に連れて行ってくれたとき、美しい着物を着て琴を弾く姿に憧れて、少しだけ習ったことがあるけれど、それっきりだ。
この地元の高校で筝曲部があることを知ったときは、運命だと確信したくらい。
「琴ー、かえろー」
「うん、ちょっと待って。進路調査票、教室に忘れてきたみたい」
「えー、忘れるか、ふつー」
「ごめん。先に昇降口に行ってて」
練習が終わったところで気づくなんて、こういうところからまだ受験生という自覚がないんだな、と自分自身でも感じてしまう。
それでも、やっぱり、今は・・・
扉が開いたままの教室に入ると河野くんがひとり窓際でなにか紙のようなものを手に佇んでいた。
「沢井さん、どうしたの」
「進路調査票忘れてきちゃって。河野くんは?」
「俺も。忘れたっていうよりは、真っ白だからどうしようかな、と」
ん?それってどの大学を選んでも余裕だから選べないってこと?なんてひねくれたことが頭に浮かんでしまうけれど、まさかそんなことはないよね。
「河野くんは東京の大学へいくの?」
「さぁ、どうだろう。本当にまだ決めてないんだ。時々大学へ行く意味がわからなくなるときがあってさ」
どこか遠くを見つめるような瞳でそう語る河野くんの言葉に、わたし軽く頷いた。それ、わかる気がする。
3年生になって受験受験と繰り返されて、まるで大学に行かないと言うことが異常であるかのような雰囲気がただよっている。だったら進学クラスなんか希望するなって感じなんだけれど、人生の選択肢をたくさんもっておきたいと思うのは普通のことなんじゃないかと思う。
でも本当はこのとき、河野くんは大きな人生の選択を迫られていたこと、わたしは知るはずもなかった。
「先生たちは河野くんに期待してるから」
「沢井さんだってそれは同じだろ?」
「わたしは違うよ」
明らかに河野くんとわたしとでは比較にならないと思う。
「沢井さんは決めたの?」
「いくつかには絞ったけど、模試の結果次第かな」
両親とも相談して無理をせずやりたいことができる大学へ行くことを希望しているので、安全圏と言われているところしか書いてはいない。なのでこれ以上成績は落とせない、という危機感はある。
「明日模試の結果も渡されるんだっけ」
「確か、そうだったはず」
不思議だった。
中学以来ほとんど関わりのなかったわたしたちが空白の時間なんてなかったかのように普通に、話をしている。
「そういえば、河野くん今日、部活はいいの?」
「あー、今日は生徒会の引継ぎがあったから。そっちに顔出してたんだ」
そうか。部活もやって、成績優秀で、それで生徒会もやっていたのだから、相変わらずあの頃となにも変わらない。
「こーとー。まだー??」
先に行って待っていたはずのつぐみが痺れをきらしたのか教室まで迎えにきたようだ。
「じゃあ、わたし、行くね」
「うん。また明日」
右手を上げた河野君にわたしは軽く手を振った。
また明日。そう、また明日、この教室で河野くんと顔を合わせ、そしておはよう、と変わらず挨拶を交わすのだろう。
それだけのこと。
それなのに、どうしてこんなにも温かい気持ちになるんだろう。