【春夏秋冬、花が咲く】夏、君が微笑む 第一部 - 1/8

きゃあああああああああああ。

なんであの人がこんなところにいるの!?

 

という私の人生最大の心の叫びを聞いた人は恐らく誰もいない。

 

社会人1年目。決して希望通りの就職先、とは言えなかったけれど、一応それなりの企業の内定をもらい、もう何もかも忘れ去って新しい生活を始める・・・つもりだった。今日この日、この時間を迎えるまでは。

入社式の後、声をかけてくれた柚葉ちゃんとはすぐに意気投合、というか私が柚葉ちゃんのサバサバ感に惚れてしまって、さっそく同期の友達もできて、まさしくこれから未来はバラ色よ、なんてわけのわからない新しい未来に希望すら抱いていたのに。

目の前で、ホワイトボードを背に何やら難しいことをおっしゃっているその優しげな男性に、私はもうどうか気づかれないようにと願うばかり。

「美絵?どうかした?」

「あ、ううん。なんでもない」

隣で真剣に話を聞いている柚葉ちゃんが私の顔を心配そうにのぞき込んでくれる。

違うんです。体調が決して悪いわけではないんですが、精神的苦痛が大きすぎて、苦しいんです。なんて誰にも言えない。

できればこの場所から逃げ出したい。

いえむしろ決まって、入社式まで済ましてしまって申し訳ないですが、内定取り消してもらえませんか。

私はひたすら心の中で叫び続けた。

しかし、現実問題として私が就職できたのなんて奇跡としか言えない状況で。泣いて喜ぶ両親と弟の顔がちらほらと浮かんでくる。

コイツが本当に社会人として仕事なんてできるのか、と言わんばかりに、さっさと嫁に行けやら大学でいい男見つけなさいとか、あげくの果てにはお見合い話なんて持ってくる家族に、私だって就職くらいしてやるわよ、と豪語したものの現実はそんなに甘くはない。

やっと手に入れた内定が、この会社。

そして私が今座っている場所は新入社員なら誰もが経験する新人研修会の一席。

会社の提携する寮のようなところに押し込まれ、配属が決まるまでの、もちろん研修中の態度もろもろで配属先は決まるのだけど、1ヶ月間みっちりと会社のお勉強をさせられる。

その会社のお勉強を教えているのが目の前に立っている爽やかな容姿の男性。

 

彼は紛れもなく、私の”初めて”の相手の人だった。

 

あれは思い出したくもない・・・過去の出来事。

いや、あの時の私はきっとというか絶対全体おかしかったのだ。

就職も決まらないし、付き合っていた男には人づてに「3ヶ月付き合ってもやらせてくれない厄介な女」とか言われ・・・

挙げ句の果てには。

「アンタ、孝雄と別れなさいよ」

と見ず知らずの派手な女の子に呼び出されていきなり命令口調でそう告げられた。

そこは誰もが知る有名チェーンのカフェで、時間帯も夕方の混む時間だった為、けっこうなお客が入っていた。

矢木杏奈と名乗った2つ年下の女の子はその後も命令口調で周囲も振り向くほど酷い(らしい)言葉を延々としゃべり続け、最後にわかった?と念を押してきた。

「はぁ・・・。あの、もう一度おっしゃっていただいてよろしいですか?」

あまりにも早口だった為、鈍い、鈍くさい、と言われ続ける私が理解できるはずもなく、そう答えたのが彼女のカンに障ったようだ。

矢木杏奈は目の前のアイスコーヒーを手に持つと、瞬く間にそれを私に向かって思いっきり振りまくように、かけた・・・らしい。

らしいというのは、こういうときに限って、バッグの中のケータイが鳴っていることに気づいて下を向いてしまったため、彼女が私にかけようとしたアイスコーヒーは私のすぐ後ろに座っていた男の人の後頭部にモロにかかってしまったのだ。

まさしくドラマのような光景が、一瞬その場の時を止めてしまった。

矢木杏奈は。

「アンタ馬鹿じゃないの。アンタのせいだからねっ」

と大声で叫ぶと、さっさとその場から逃げ去ってしまい、取り残された私は、というと、後ろのとてつもなく散々な場所に居合わせてしまった不幸な被害者におそるおそる声をかけた。

「あ、あの。申し訳ございません」

カバンの中のハンカチを差し出してみる。

「おまえさー」

「ひゃっ」

その声があまりにも怒りを帯びているようで、当然だけれど、私は驚いて思いっきり目を閉じてしまった。

すると、大きなため息が聞こえてくる。

「あのさ、別にオマエが悪いわけじゃないし。言うならばオマエも被害者だろ?あれだけ言われてさ。」

そ、そのとおりかもしれませんが。

彼女を怒らせるような態度をとったのは私デス。

「あの、クリーニング代出しますので」

とにかくこの目の前の男性までも怒らせるわけにはいかない。いやすでに相当お怒りかもしれませんが。

「そんなのいい。それよりちょっと一緒に来い」

「はい?」

 

連れてこられたのは超一流ホテル。

戸惑う私に「知り合いのホテルだから」と有無を言わせず引っ張り込まれた。

見ず知らずの不幸な被害者の男性にこのまま襲われるのかしら、なんていう恐怖心はなぜか全くなく、私は彼がシャワーを浴びて出てくるのを、ぼーっと待っていた。

キョロキョロと見回してみるとやはりなんだかすごい。いわゆるスイートルームというやつでは?こんなホテルに予約もなしでしかも顔パスだなんて一体どんな知り合いなのだろう。実は怖い人なんだろうか。

「シャワー浴びろよ。オマエも少しかかったんだろ?」

バスローブ姿で現れた彼に思わずドキっとしてしまったけれど、私はあまり彼の方を見ないように、じゃあ、遠慮なく、と答えておいた。

とは言っても、彼も私も着替えなんてない。

確かに彼の言うとおり、私にも少しはかかっているけれど、彼ほどではなく、服も目立たない黒っぽいカーディガンを羽織っていたので特に問題はない。

大変なのは彼の方だ。

スーツの上着を脱いで薄いブルーのシャツだけで椅子に座っていた彼はまさしく頭からコーヒーをかぶったわけで、その着ていたシャツも犠牲となったのだ。

彼はどうするつもりだろう。

なんて思いつつも、私もベタベタする感じがあったので遠慮なくシャワーを浴びさせてもらう。

服はそのまま着ていた服をもう一度纏った。

もう後は家に帰るだけなのだ。問題はない。

問題はないけれど、私はどうやってここを出て行けばいいのだろう。

すみません、もう帰っていいですか。

いや、被害者に対してそれはあまりにも失礼すぎる。

そんなことをブツブツと口にしながら出て行くと、彼はケータイ片手に早口でしゃべっている。

ああ、そうか。

彼は仕事中だったのだ。

きっと仕事で外回りをしていて、ちょっと休憩、と思って入ったカフェでとんでもない状況に鉢合わせてしまったわけ。

一人で納得しながら彼の電話の終わるのをじっと待つ。

そんな私に気づいたのか、彼も早々に電話を切り上げて部屋には私と被害者の彼。

「あの。本当に申し訳ありませんでした」

やっぱりもう一度謝っておく。

「だからさ、オマエも被害者だろ」

「いえ、でもー」

「あの女。名前知らないけど、あの女のしゃべってる間、俺はハラワタ煮えかえりそうなほどむかついたけど・・・オマエ・・・っく。あはははは」

彼はいきなり笑い始めた。

どうしよう。何かがツボにはまったらしい。

 

「えーっと」

「オマエ名前は?」

「え、名前?」

「そう」

「あ、佐伯美絵です」

「ふーん。美絵ちゃんね。俺は海・・・いや沢村尚弥」

「あのー、沢村さんお仕事大丈夫なんですか?」

「ああ、さっき会社に連絡入れたし、今日はもう直帰」

「あ、なら良かったです」

私はほっと胸を撫でた。

これで仕事で大変なことになった、なんて言われてしまってはどうにも責任の取りようがない。

「あの、クリーニング代・・・」

「だから、いいって。着替えもフロントに頼んだからすぐに持ってきてくれる。それより、今夜食事でも付き合えよ」

「じゃあ、せめて私にお支払いさせてくださいっ」

「オマエ、まだ学生だろ?もう気にしなくていいし。悪いのはさっきの嫌な女」

「でも…」

と言いつつ、ホテルのディナーをしっかりごちそうになってしまった私は、なぜかお酒の勢いも借りてか沢村さんにすべてをぶちまけてしまった。

初めて会った男の人に。

迷惑かけた上にさらに迷惑をかけてしまうとは。

それでも沢村さんはさすが大人の男の人。

私の散々な不幸話の愚痴を最後まで聞いてくれた。

そして私のとんでもないお願いにまで付き合ってくれてしまったのだ。

 

「お願いです。私の初めての人になってください」

 

別にお酒に酔った勢いではなかった。

しっかりと意識もあったし、朝起きて昨夜の記憶がない、なんてこともなかった。

ただ、私はやっぱりどうかしていたのだ。

大学4年の初夏。

なかなか決まらない就職先。

せっかく初めてできた彼氏に酷いことを言われ。

あげくの果てにその彼氏を好きらしい女にアイスコーヒーをぶちまけられ・・・実際ぶちまけられたのは沢村さんだったけど。

家族からはどーせ美絵は就職なんてできるはずない、いい男さえも捕まえられない情けない女だと日々言われ。

落ち込みたいけど、落ち込んでもいられないその状況に、私は疲れ果てていたのだと思う。

だから、ほんの少しでも優しくしてくれた沢村さんに心動かされてしまったのかもしれない。

ずっと良い子で生きてきた自分が、一度くらいハメを外しても許されるんじゃないかと、そう思ってしまったから。

 

そして朝、

『たくさんご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした』

私はそう置き手紙を残して、ホテルを後にした。

生まれて初めて無断外泊、朝帰り。

家族は何も聞いてこなかったから、私も何も言わなかった。

 

それは生まれて初めての最大の秘密。