プロローグ
「あ、これかわいい。」
私はワンポイントの小さな花柄のついたガラスのコップを手にとりながらつぶやくと、後ろから速人さんがいいんじゃないか、なんて答えている。
独り言のつもりだったんだけどな。
どうしてこういつもいつも私のくだらないつぶやきまで拾ってくれるんだろう。
一体全体、何が起こってこうなってしまったのか、私はいまだに信じられないでいる。
でもこれが現実だと言われたから、夢ではないのだと思う。
5月連休のはじめの日。
私は速人さんとショッピングモールへお買い物に来て、雑貨屋さんをまわりながら、私の趣味で食器やグラスを選んでいたりする。といっても私は基本的にシンプルなものが好きなので、速人さんにしてみれば全く問題ないみたいで。
それに、キッチンに立つのはほとんど私だから、好きなようにすればいい、なんてことを言っている。
なんだろう。この新婚のような会話は。
このゴールデンウイークに新居となるマンションへ引っ越すことが決まって・・・といっても私が持ち込むものなんて服とか日用品くらいで、家具はほとんど購入だったけど。
今日は引っ越し初日のお買い物。
クリスマスイブにつきあい始めて、なんだか話はトントン拍子で一緒に住むことになってしまった。
話が決まってからの速人さんは待ってましたと言わんばかりに、目をつけていたらしいセキュリティのしっかりした新築マンションに契約して・・・もちろん私も中は確認したけれど、それはそれは真新しくて陽当たりもよく、バルコニーも広い、すばらしすぎる空間だった。
速人さんの前のマンションに比べると、会社からは少し離れたものの、都外の実家通いの私からしてみれば電車で15分の距離なんて夢のような場所だ。地下鉄一本で通えちゃうし。
「少し疲れないか?どこかでお茶でもしようか?」
「うん。」
そんな小さな気遣いが嬉しくて私は思わず速人さんのシャツの袖を握ってみる。
それに気づいた彼は優しい微笑みを返してくれる。
オープンカフェで、ゆったりとコーヒーを飲む。
行き交う人は家族だったりカップルだったり、それはあまりにも穏やかな日常だ。
「あとはどこか見るところある?」
「んー、食器や調理具は買ったし・・・、夕飯のお買い物くらいかな。」
「了解。」
目の前に座る背の高い彼を気づかれないようにちらっと見る。
私は、今日からこの人と、一緒に暮らすんだ・・・。
1
話の始まりは、お正月までさかのぼる。
なぜか父が速人さんを招待するように、と言い、私は恐る恐る速人さんに連絡をした。
そして3日に、両親と私と速人さんとで食卓を囲むというあまりにも居心地の悪い事態に陥ってしまった。
私の心臓はばくばくとものすごく寿命が縮まるかのように激しく打ち付けていたけれど、ふと隣を見ると、速人さんはどうというわけもなく、いつも社員に見せる爽やかな表情だ。
この人は緊張とかしないのかな。
不思議に思いつつも、私は熱いお茶を少しだけ口にした。
こんな状態でおせち料理なんて口にできるわけない。
なんて思っていたら、速人さんがその重苦しい雰囲気を打ち壊すかのように口を開いた。
「このおせち料理は奥様がお作りになったものですか?」
「ええ、紀美香と一緒に・・・お口に合うかわかりませんけども。」
「そうですか。いいですね。おせち料理なんてもう随分長い間口にしていませんよ。」
速人さんがそう言うと、珍しく父が反応した。
そういえば、この二人一度会ってはいるんだっけ?
あの林葉怜司の件で。
初対面ではないから・・・私だけが緊張しまくってるの?
「浅風さんはご実家には戻られないのかね?」
「ええ、仕事もありましたから、三が日まるまる休めた年は学生時代まででしたね。」
「そうか。民間企業は大変だと聞いていたが・・・。」
そんな風に普通に仕事の話を始めるものだから、私と母は口を挟みづらくなってくる。
ただ無言で箸だけを動かしてみるけれど、やっぱり気になってどこか落ち着かない。
けれど、そんな私の心情を知ってか知らずか、なぜか男二人は話に夢中だ。
話だけを聞いていると、けっこう父はいつものように自分の持論を展開していて、私としてはウンザリする思いだったけれど、速人さんは真摯に対応している。しかも決して否定することなく、共感できない部分は上手く話を逸らすようにして交わしている。
凄い、な。
と思った。
私や母には決してできないことだと思った。
こんな難しい父と対等に話せるなんて。
母も少し驚いているようで、私と母は思わず顔を合わせた。
しばらくの間、二人は仕事の話ばかりをしていたが、ふいに話題が少し変わっていることに気づいた。
どうやら、速人さんの食生活が外食ばかりだということに対し、父が食事は大切だから、と諭しているような感じだ。
「松井さんの家は幸せですね。奥様がいつもおいしい手料理を用意して待っていてくださるんですね。」
速人さんは決してお義父さん、お義母さんなんて軽々しく呼んだりはしない。
父のことは松井さんと呼び、母のことは奥様と呼んでいる。その辺りも父にとっては好感のもてるところなんだと思った。
「ならば、紀美香、お前がお弁当でも作ってさしあげなさい。」
は?
父の言葉に思わず、固まった。
まさか父の方からそんなことを言われるなんて夢にも思っていなかった私は驚きを隠せない。
何も答えずにいると、速人さんがテーブルの下から気づかれないように私の膝をポンポンと軽く叩いてくれた。
「作ってもらえると助かるのですが、それはご迷惑でしょう。」
速人さんが申し訳なさそうに言うと、そんなことはない、と父はすぐさま否定する。
「男の健康管理は女がするものだ。」
なんてことを言っている。
ああ、確かに。
食事は女が作るものだと父は思っているし、当然ながら夫の健康管理は妻の仕事、男が仕事をしやすい環境を作るのも女の仕事、と思っているところがある。
もしかして、速人さんはそれをわかっていて、食事のことなんて話題にしたの?
まさか。
「私、作ります。」
「ですが、彼女は家を出る時間も早いようですし。」
「ならば紀美香が、仕事を辞めればいい。」
・・・やっぱりそこにいきつくのね。
父はなにかというとすぐに仕事を辞めろ、の一言だ。
でもそれって、なんだかもう公認?ていうこと?
なんだか父がよくわからない。
私がため息をついて、何かを言おうとすると、その前に速人さんが先に口を開いた。
「そうですね。彼女が仕事を辞めて、私の食事を作ってくれたり家のことをしてくれれば助かりますが、でもそれは私個人の希望です。会社としては彼女の力が必要ですからね。」
「あまり役に立っているとは思えんがね。」
女は仕事の邪魔をする、といつも言っている父は、私が仕事を続けることにいい顔をしない。
「紀美香さんは、しつけや教育がしっかりゆきとどいています。そういう態度が時には取引先の方の印象を良くすることが多々ありますから。知識、教養のある女性は会社においてもなかなか手放したくない人材なんです。」
ふと、速人さんが言っていたことを思い出す。
『多少、父親に話を合わせることもあるが、気分を悪くするなよ。』
「そうか・・・。」
父は、速人さんの言葉に満足そうだった。
速人さんは、こんな立派な家で育てられて、ちゃんと教育も受けている・・・私、というよりもそういったものを与えた父を褒めている。
父の気分が悪くなるはずはなかった。
本当に、凄いな。
ただ、反発するだけの私とは明らかに違う。
しばらく話をして、私と速人さんは二人で初詣に行くことになってしまった。
これもまた速人さんの巧みな話術で、父の方から行ってきなさいと言われたのだ。
まったく、驚くばかりの一日だった。