【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 8/12

よそよそしくしていた態度が嘘のように、私は思わず童心にかえって楽しんでしまった。

こんなに思いっきり笑ったのは久しぶりだ。

それほどに、私はとてもとても、この時間がたのしくて仕方がなかった。

午後からのチケットだったのでそれほど長い時間ではなかったけれど、まるで夢のように過ぎていった時間を、私は決して忘れないでおこうと思った。

 

「ごめんなさい、私ひとりはしゃいでるみたいで。」

「いや、俺も楽しいよ。紀美香が笑ってるの初めて見るよ。それだけでも価値があったかな。」

「・・・。そういうことばっかり言うから噂されちゃうんですよ。」

「本当のこと言っただけだろ。そこらの女どもに言った覚えはないし、言うつもりもない。」

 

恥ずかしげもなくそう言う彼を、好きになれたらどんなに良いだろうと思った。

たとえ先に終わりが来るとしても、きっとそれまでは楽しい時間が過ごせるに違いないのに。

彼はきっと、私が答えられないのを知っているから、そんなセリフばかり言っているのだと思っていた。私が軽く受け流すのを期待して。

 

けれど、彼の中ではすでに計画が進められていたことを知るのはまだもう少し先の話のことだ。

 

「あ、そろそろ帰らないと。」

私は時計を見ながらつぶやいた。

夕方6時、ライトアップされた華やかなアトラクションが夜だということを忘れさせてくれるけれどすでに冬の季節に突入している為、あたりはもう真っ暗なはずだ。

夢はいつか醒めるもの。

現実は、いくら逃げても私は父の呪縛からは逃れられないということ。血のつながる家族なのだから、大事にしなければならないと決めたのは一体誰だろう。

家族だから当然、と。

大人になって、自分でお給料を稼ぐようになった今でも、家族というその繋がりから私は逃れられない。

けれど、速人さんが遊園地に連れてきてくれて思いっきり遊んだおかげで少しは気分が楽になった。

またいつものように、なるだけ父を刺激しないように、私が大人しくしていればいいことなのだ。

 

「最後に、アレ乗ろうか。」

彼が指さすのは観覧車。

恋人たちの小さな空間。

「・・・はい。」

もう少しだけなら夢を見ていてもいいかもしれない。

 

「実は、紀美香の家には連絡してあるんだ。今日は仕事で俺の手伝いをしていることになってる。」

なんと用意周到なことだろう。

「すみません。」

「きっと、いろいろ言われるだろうと思ったからな。嘘ついて悪かった。でも、紀美香のお父さんは厳しいようだから。」

二人になった途端に静かな空気が流れ込む。

賑やかな地上からゆっくりと遠ざかって行くにつれて静寂さは増していく。

夜空の星は見えないけれど、幾つもの光のつぶが散らばって、キラキラと輝いていた。

 

「私、父のこと親なのに・・・尊敬もできないし愛せない。」

「俺も・・・愛せなかったな。」

「そうなんですか?」

なぜか驚いた。

「もう離婚して、どこにいるかわからないけど。酒を飲んでは暴力を振るっていた。」

「暴力・・・酷い・・・。」

「別に親だから愛さなきゃいけないとか、そんな義務のように思うことはない。」

「・・・親なのに?」

「ああ。いつか時間が解決してくれるかもしれないし、また何かのきっかけで良い方向に向かうかもしれない。俺は今でも父親のことは尊敬できないが、幼い頃たまに遊んでくれたことだけは感謝してる。」

「それで・・・、いいのかな。」

「親子だって合う合わないってのはあるだろう。合わないもんは仕方ない。」

「仕方ない・・・。」

私が今まで抱えてきた重りのような呪縛を、彼は「合わないもんは仕方ない」で簡単に言い切ってしまった。それほどたいしたことではない、という風に。

そんなものでいいの・・・?

 

「あ・・・。」

気がつくと、てっぺんまできていた。

話に夢中になっていてあっという間だ。

私は周りの景色を見下ろしながら、妙に軽くなった心を浮き上がらせる。

「キレイ・・・。」

私は彼も同じように景色を見ているのだと思って、振り向いた。

けれど、その瞬間唇が重なるのを感じた。

 

カタン、と軽く揺れて、彼は私の身体に手を巻き付けるようにして唇をふさいだまま隣に座ってきた。

拒むことはできなかった。

いや、本当は拒む理由なんてなかったのだ。

 

ほんの少しだけあった心の動揺すらも、そのうちになくなる。

観覧車に乗って、頂上でキスをする。

そんなマンガがドラマのようなことが本当に起こるなんて、夢にも思っていなかった。

 

一度はなれて、目と目が合う。

私よりも少し高い位置にある彼の目はとても澄んで見えた。

再び唇が重なって、そのうちに彼の舌が進入してくる。少し戸惑いながらも簡単に受け入れてしまうと、あとはもう夢中で彼のキスを貪った。

自分がこんなに大胆になることなんて想像すらしていなかった。

 

下降する小さな籠の中で、私たちはただ手をつないでいた。

お互いに何も会話することもなく、ただひんやりとしていたはずの手からじわじわと温もりが伝わってくるのを感じながら、座っていた。

このまま時間が止まってしまえばいいのに。

 

観覧車から降りて視界に入ったのは、信じられない現実だった。

まるで一瞬にして夢が醒めたように。

かけれた魔法が解けていくのを感じて、私は身体が硬直して動かなくなってしまった。

「紀美香?」

速人さんの声が微かに聞こえた。

 

出口から歩いていく私たちと、入り口付近で並んでいた婚約者の林葉怜司とその彼女。

そのわずかな距離が気づかない振りなどさせてはくれなかった。

たとえ陽が落ちて暗い夜に入ろうとしていたとしても、煌々と輝く照明が、そうさせてくれるはずもない。

 

「紀美香?」

林葉怜司の声は速人さんのそれとは違って、聞いてるだけで鳥肌が立ってくるような嫌な声。

「怜司さん・・・。」

彼は、きっと私たちのことを父に話すに違いない。

自分だって他の女と遊びに来ているのに、そんなことはひとつも口にすることなく、私の非だけを責め立てることだろう。

「こ、婚約者です・・・。」

私は小さな声で、速人さんに聞こえるように言った。

明らかに震えている私の身体を支えるようにして、彼は私の視線の先にいる婚約者を見据えていた。

こんなところを見られて、もう何も弁解などできない。

 

「こんばんわ、あなたが林葉怜司さんですか。私は、彼女の上司で浅風と申します。」

「へ~、おまえもけっこうやるもんだな。」

いやらしい視線を向けられて、私は思わず顔を背けた。

婚約者は、明らかに年上である速人さんに挨拶もせず、ただ興味深そうに眺めている。

「紀美香さんの婚約者だそうですね。」

「そーだけど?それ知っててあんた俺の婚約者に手を出したわけ?」

「まさか、出してませんよ、まだね。私の方が一方的に言い寄ってるだけです。今日も仕事のついでに強引に私が誘ったんです。彼女には婚約者がいるから、と断り続けられましてね。」

「へー、それほどの女だったのか。やるなー、紀美香も。」

ああ。もういやだ。

この下品なしゃべり方は聞いているだけでも気分が悪くなる。

本当にどうしてこんな男が婚約者なのだろう。

どうして父は見せかけだけの優しさに騙されてしまうのだろう。

 

「あ、あの。もう行きましょう。」

私は思わず速人さんの腕をぐいとひっぱった。

「怜司さん、父に言いたければ言ってください。それじゃあ。」

 

「待って。大丈夫だから。」

速人さんは、そう優しく言うと、林葉怜司に近づき何やら耳打ちしていた。

私には何も聞こえない。

林葉怜司は一瞬顔を強ばらせて、速人さんの方を睨みつけたが、すぐに隣にいる彼女の方に向き合っていた。

 

「ごめん。」

「何を、言ったんですか?」

「ん?まあ、ちょっとな。」

彼は何も教えてはくれなかった。

一体何を言ったのだろう?不思議に思いつつも、私は速人さんの手を握りしめていた。

 

「あの・・・。」

私の震えの止まらない手は繋がれたまま。見上げると彼の優しい顔がある。

「そういう顔されると帰したくなくなるだろ。」

帰りたくない。

家に帰れば見たくもない現実に戻ってしまうから。

俯いた私の手を、彼の方からはなした。

温度が一気に下がっていくのを感じながら、心を覆うのはなんとも言えない虚無感だった。

 

「たとえば、もうお互いいい大人なんだから、このまま俺が紀美香を連れ去ってもかまわないが、今の時点でそれが紀美香にとって良いこととは思えない。この先、いろんな問題が片付いたとき、紀美香が俺を好きになってくれたら、この手を握ってくれればいい。」

もう、好きになってるかもしれないのに。

それを言わせてくれない。でもきっと私が今、彼の手を取れないのは事実なのだ。何もかも捨てる勇気は私にはないから。

いろんな問題が片付くとは、一体どういうことだろう。

私の未来が変わるはずなんてない。あの父が存在する限り。

 

「次は、もう二度とはなすつもりはないから。」

 

次、なんてやってくるかどうかわからないのに。

期待してはいけないのにどこかで期待している自分がいる。

 

家に帰ると、母が出迎えてくれた。

速人さんが、「今日は彼女のおかげで助かりました。」なんてことを営業スマイルで言っていたのがなんだかおかしかった。

父は家にいたはずなのに、何も言うことはなかった。

たとえ仕事ということにしていても、またグチグチ言われるのだろうと覚悟していた私はなんだか拍子抜けしていた。

 

部屋に入って、そのままベッドに倒れ込む。

今更ながら恥ずかしさが込み上げてきて、私はしばらく動くことができなかった。