【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 7/12

「社内で・・・、俺のこと、どんな風に噂されてるか知ってる?」

「え?」

唐突にそんなことを聞かれるものだから、私は一瞬どう答えていいかわからなくなってしまった。

彼に関する噂はそれはもうすごい。

あまり女性社員の輪の中に入っていかない私の耳にすら色々入ってくるほどに。

それを正直に話すのはあまりにも”副社長”に対しては失礼な話だ。たとえそれが事実であったとしても。

 

私が言いにくそうにしているのを察してか彼の方から口を開く。

「夜の街でいつも連れ歩いてる女が違うとか、高級クラブの常連だとか、来る者拒まず去る者追わずとか・・・他には?」

なんだ、この人全部知ってるんじゃないの。

私はぽかーんとして彼を見つめた。

この人は一体何が言いたいのだろう。

 

「あ、大沢課長とも噂に・・・。」

とりあえず正直に言ってみる。

うちの経理課長の元にしょっちゅう訪れてるせいか、かなりの噂になっている。しかも課長の左薬指には光るリングがしっかりとおさまっているから。

「大沢さん・・・?ハハハ。彼女とも噂になってるのか。失礼な話だな、彼女にしてみれば。彼女は結婚してるよ、俺の友人とね。」

「そうなん・・・ですか。」

結婚。

確かにそうであっても全然不思議はないけれど。

「彼女は初期メンバーだからな。話しやすいだけだ。しかし俺が話す相手は誰でもそういう噂を立てられるのか。参ったな。」

彼は本当に困ったように笑った。

噂とは本当にいい加減なものが多い。

 

「で・・・。」

「で?」

「高級クラブの常連てのは、あながち間違ってはいないかな。うちの母親がオーナーでね。たまに顔を出したりしてるから。」

「・・・。」

速人さんのお母さんが高級クラブのオーナー。

「前にしつこい客がいて・・・、店の女の子たちが危ないからって母に頼まれて、何度か送っていったことがある。違う女を連れ歩いてたってのはたぶんそのことじゃないかな。他に思い当たる節はないし。」

「はぁ・・・。」

 

どうしていきなりそんなことを話始めたのかいまいちよくわからなかったけれど、本当のことって本人に聞いてみないとやっぱりわからないものだなぁと思ってしまう。

 

「来るもの拒まずってのは、まあ20代前半の頃はそういうこともあったから嘘とは言えないか。」

「どうしてそんなことを私に?」

「紀美香がどうせ自分も遊びのうちのひとりだろう、って顔してるから。」

「・・・。」

どうしてわかったんだろう。

 

「信じてはもらえない?」

「何を、ですか。」

「俺が紀美香を好きなこと。」

「・・・よくわかりません。」

「少しは信用してもらえたかと思ってたけど、手強いな。」

「だって、他に可愛い子はたくさんいるでしょう?私のような家庭がややこしいだけじゃなくて、とりわけ目立つようなところもない女を選ぶ理由がわかりません。」

 

料理が運ばれてきて、私はふと、隣に立つその人を見た。

さっきのオーナーシェフだ。

にっこりと笑って、目の前にパスタのお皿をコトンと置いた。

「この店に速人が女性を連れてくるのは貴方が初めてですよ。お口に合うといいんですが。」

どういうつもりで彼がそんなことを言ったのか、シェフはさっきの会話を多少は聞いていたのだろう。けれどもそれ以上は何も言わず、軽く頭を下げて行ってしまった。

 

サラダと、スープ。色とりどりの野菜の散りばめられたパスタ。

私はスパゲッティが好きだと、幼い頃に言ったことがある。だから夕飯はスパゲッティがいい。

けれど、それは簡単に切り捨てられた。父の言葉によって。

日本人は和食と決まっている。

それ以来、私は自分の好きなものを口にすることはなくなった。きっと、好きだと伝えることが怖くて仕方がなかったから。

 

「食べよう。」

速人さんはフォークを手にした。

私も同じようにフォークとスプーンを手にとった。

 

「おいしい。」

そんな小さな私のつぶやきをしっかりと聞き取っていたのか、速人さんは「帰りにあのシェフに言ってやって」と笑っていた。

本当にそのどれもがおいしかった。

焼きたてのパンも、スープも。

いつも会社近くの安いイタリアンのランチとは全然違う。

思わず心もほぐされていくようだ。

おいしいものを食べるってどうしてこんなに幸せな気分になれるのだろう。不思議だな。

 

「遊園地でも行こうか。」

食べながら、突然速人さんが口にした。

遊園地?

彼が遊園地?

この人はいつも唐突だ。

「似合わない、とか思ってるだろ。」

「そんなことは。」

「実は行ったことがないんだ。」

「え?」

「一緒に行こう。」

 

私はふと、自分の姿を思い出す。

昨日、仕事に行って、そのままの姿で家を飛び出してきてしまい、その服を今も着ている。

きっちりしたスーツでなく、スカートにブラウス、カーディガン・・・オフィスカジュアルな服ではあるけど、さすがに遊園地はどうだろう。コートを上に羽織るならば問題ないか・・・。

 

私はどうして遊園地に行くことを断らないのだろう。

自分でも不思議だった。

心のどこかで、まだこの人と一緒にいたいと思っている。

そして、家にはまだ帰りたくない。

帰ればきっと父がまたあれこれ聞いてくるに違いないから。

 

私たちはそのまま遊園地に行くことになった。

遊園地なんて何年ぶりだろうか。随分と幼い頃に1、2回ほど行った記憶があるだけだ。あんな場所は子どもが楽しむ場所だと思っていたけれど、今の私はどこかワクワクした気持を隠せないでいる。

彼の運転する車の助手席で、通り過ぎる景色をぼんやりと眺めた。

本当なら、寒い夜の街を行く当てもなく彷徨っていただろう私は、なぜか会社の副社長のマンションに泊まり、今は横に座っている。

 

「どうして噂、みんなに否定されないんですか?」

私がなんとなく尋ねた言葉に、彼は軽く微笑んでまた前を向いた。

「好きな子が真実を知ってればそれでいい。」

そんな噂などあまり意味のないことだと、彼は言っているのだろう。

確かに人の噂なんてただ面白おかしくその人を評価しているに過ぎない。真実はその人にしかわからないのだし。

 

少なくとも、朝の休憩室で彼と出会ってから、噂に聞く”副社長”像はあくまで創り出されたものでしかないことが分かったし、さっきの彼の話で、彼の周りの女性たちの陰は恋人でもなんでもないことは証明された。

本当の”副社長”はきっともっと違った人間なんだと思う。

今の彼は・・・仕事に一生懸命で、本が好きな・・・たまたま顔がいいから派手な噂を立てられるだけの、本当はごく普通の男の人なのかもしれない。