【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 6/12

コーヒーのほろ苦い香りに起こされると、既に日は高いところに昇っていた。

リビングのソファに座ってコーヒーを片手に新聞を広げる速人さんの姿に思わず見とれてしまった。なにげないひとつひとつの仕草や行動がこんなにも絵になる人はなかなかいないだろう。

「おはよう。」

私の気配に気づいた彼は爽やかな笑顔を向けてくれる。

それは会社での挨拶よりも少し柔らかいように思えた。

「おはようございます。」

私は少しだけ恥ずかしくなって、口元を手で覆い、軽く下を向いた。

生まれて初めて男の人の家のベッドの上で目覚めた。

そのことが今更ながらに自分でとても大胆な行動を取ってしまったと思いっきり後悔してしまう。

 

洗面所で顔を洗い、身支度を調えて彼のいるリビングへ入る。

「コーヒーでいい?」

「はい。・・・あ、自分でやります。」

「いいんだ、これくらい。」

彼は立ち上がるとキッチンへと入っていった。

私はどうしていいかわからずなんとなく彼の後ろをついていく。

調理具などは何もなく、ほとんど使われた形跡のない場所だ。

唯一コーヒーメーカーが置いてあるだけだ。一人暮らしの必需品とも言える電子レンジもない。

 

「もう昼時だし、外でメシ食おう。」

「あ、はい。」

「料理しないから何も置いてないんだ。」

私があまりにも物珍しそうに見ていたからか、彼が笑いながら言った。

「ごはん、いつもどうしてるんですか?」

「外食。」

「外食だけ、ですか?」

「そう。」

 

男の一人暮らしだとコンビニ弁当が主流だと聞いたことはあるけれど、外食だけとは驚きだ。

副社長ともなれば良いお給料をもらってるだろうから金銭的には問題ないのかな。

そんなことを思いながら私は自分の家の食卓を思い浮かべた。

花嫁修業と称され、週末は私が食事を作らされるが、それ以外は母が作り、父の帰りを待って食事をする。会話は特にない。

子どもの頃はあったような気がするけど、ほとんど記憶にない。

たぶん兄がいなくなってから、あの冷え切った食卓になったのだ。

 

「紀美香は、料理できる?」

「ええ・・・一応・・・たいしたものはできないですけど。」

誰もおいしいともまずいとも、何一つ感想を述べてくれることはないけれど。

たぶん、父は女が食事を作りそれが目の前に出されることが当然だと思っているのだろうし、そんな父の前で母が私の料理の腕について語ることなどできないのだろう。

「じゃあ今度作って。」

「え?」

こんなのまるで恋人同士のような会話だ。

それなのに、速人さんはなんでもないような顔をしている。

この人は私をからかっているのだろうか。

 

「好きでもない婚約者に負けるつもりはないから。」

コーヒーカップを流しに置くと、彼は車のキーを指で遊ばせながら私に囁いた。

 

「お昼、何か食べたいものはある?」

「・・・イタリアン。」

思いっきり素直に答えてしまって速人さんはクスクスと笑って「了解。」と言った。

 

家では和食以外、作らないし食べない。

それは父が和食を好むからだ。

けれど、私はイタリア料理が好きで、幼い頃父がいない日には母にねだってスパゲッティを作ってもらっていた。

今はお弁当持参の日以外はほとんどイタリアン。

会社にいるときが唯一私に与えられた自由な時間。

 

彼のマンションからさほど遠くない場所に車は止まった。

よく、来る店なんだ、と速人さんは笑っているけど、外観からしてもかなり高級そうな店だ。

こういうところからしても彼は女性をエスコートするのが上手なんだな、と思ってしまう。

 

店に入るとすぐに店員の若い男の子が速人さんいらっしゃいませ、と笑顔で声をかけた。

すると奥の方から少し年をめしたオーナーシェフらしき人が「やあ。」と手をあげて出てくる。

ロマンスグレーという言葉がピッタリなそのシェフは私の方をちらりと見ると、にっこりと微笑んで、ようこそ、と声をかけてくれた。

そして再び、速人さんに軽くウインクすると厨房へと戻って行った。

 

「本当によく来られるんですね?」

「ハハ。ここのオーナーは知り合いなんだ。いつもは一人だから、ペラペラしゃべってくるけど、今日はどうやら遠慮してくれたようだな。」

ひとり?

「疑ってるだろ。今日はその辺の誤解でも解いておこうか。」

「え?」

誤解ってなに?

そんなことを疑問に思いつつも私は案内されるがままに歩く。

 

案内されたのは奥の個室のように区切られた場所。

「こういう店に男一人で入ると目立つらしいから、ここ、俺の指定席にしてもらってる。」

それは、目立つだろうな。

男一人、という点でも目立つだろうし、容姿の面でもかなり目をひくに違いない。

速人さんは椅子をひいて座らせてくれる。

まるで当然のように。

父が母にそんなことをしている姿を一度も見たことはない。

私も、名ばかりの婚約者にそんなことをしてもらったことはない。

これがレディーファーストというものなのだろうか。

どこかくすぐったい感じがしながら私はありがとうございます、と小さくつぶやいた。

 

「ここのお薦めランチコースでいい?」

「はい。」

と答えてみたものの、私は財布を自宅に忘れている。

それを彼は知ってるわけなのだから、私に払わせるつもりはないのだろうけど・・・、月曜日に会社に行ったら必ず払おう。

そう心に決めて、とりあえずここの食事は楽しむことにした。