【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 5/12

彼は静かにぽつりぽつりと話す私の声に耳を傾けてくれた。

 

私には婚約者がいる。

父の決めた『私が幸せになれる相手』。

幸せは誰かに与えてもらえるものではないはずなのに、父はいまだに私のことを何も出来ない子どもだといい、ちゃんとした家のお金も将来も安定した人の元へ嫁ぐことが女の幸せだと信じて疑わない。

 

最近の若者は礼儀がなっていない。挨拶もできない。

仕事もすぐに辞め、フリーターなどとおろかなことを言う。

税金も払っていないくせに偉そうな態度をとる。

 

もう嫌になるほど何度も聞かされた言葉。

そんな人間に引っかかる前に、まともな人へ嫁がせるのだという。

けれど、父の言う、『私が幸せになれる相手』が、何をしているかなんて父は知らない。

何も知らないくせに、どうして決めつけてしまえるのだろう。

 

「父が前にお世話になった県議会議員の息子です。今大学生なんです。」

「年下?」

「ええ、どこでどう私のことを知ったのかわからないんですけど、ぜひ婚約者に、と請われて父は喜んでそれを受けました。」

「松井さんはその彼を知ってたの?」

「いいえ、2つ年下ということくらいしか。顔も会うまで知らなくて。」

「それなのにいきなり婚約者?」

「そうなんです。父にとっては”ちゃんとした家の息子”ってことだけが重要なようで。」

「お見合いよりもひどいな。」

速人さんは苦笑しながら聞いていた。

確かにそうだ。

顔も知らない相手をいきなり婚約者だと言われた。

普通では考えられない。

でもその考えられないことをやってしまえるのが父なのだ。

 

「彼が大学を卒業し、就職したら結婚という話になっているんです。でも彼は私のことを好きなわけではないんです。お会いした後、何度か彼女らしき女性と一緒にいるのを見かけましたし。」

「・・・彼女がいるのに?彼は嫌がってないわけ?」

「どういうつもりかよくわからないんですが、彼は父の前では私のことを大切にしている風に扱うし、父も親しい議員の先生の息子ということで絶対的信頼をおいていて。」

「松井さんの気持ちは・・・?」

「まだ結婚は考えられないと、伝えました。でも、この歳で結婚できないような器量の悪い娘をもらってくれると言っている人に対して感謝すべきだって。とても頑固で古い考えの父なんです。」

「んー、今時めずらしいな。」

「そうですね。」

 

軽く、私の手が震えていた。

こんなことを誰かに話したのは初めてだ。

 

彼は私が話すことをあくびひとつせず聞いてくれた。

母は父の言いなりであること。

私の意志は常に無視されること。

父と言い争いになって家を飛び出してきてしまったこと。

 

彼は私の震える手にその大きな手のひらを重ねた。

冷たい私の手を包み込むように、その温もりが伝わってきた。

温かい。

人の手は、こんなにも温かかっただろうか。

それとも、私の手があまりにも冷たすぎるのかな。

そんなことをぼんやりと考えた。

 

ふと、時計を見るといつの間にか明け方になっていることに気づく。

自分があまり眠くないものだから、と夢中になってしまった。

 

「す、すみません。私・・・こんな時間まで。」

「いや。慣れてるから大丈夫だよ。」

慣れてるって・・・。

やっぱりよく徹夜で仕事をしていたりするのかな。

副社長、という地位だけあって私たちが想像するよりもずっと大変なのかもしれない。

 

「ずっと一人で抱えてきたのか?兄弟は?」

兄弟・・・。

兄弟の話はうちではずっと禁句になっている。

「あ・・・年の離れた兄が一人います。でも、今は行方不明なんです。兄は父とは仲が悪かったので、大学を出るまではたまに連絡をくれましたが、一度も家には帰ってきませんでしたし、その後は一切連絡が途絶えたんです。」

「そうか・・・、辛かったな。」

辛かったな。

その言葉が、すーっと入り込んできて、私の心を軽くした。

 

うちは、端から見れば平和で普通の家族に見えていたはずだ。

けれど一歩踏み込むとそこには見えない幾つもの棘があって、平気で心を傷つける。

家族そろっていることが必ずしも幸せで平和だとは限らない。

だからこそ、兄は家を出て行った。

私だけにはいつも優しかった兄。

会話にすらできなくて、まるで最初からそこにいなかったように、父も母も口にしない。

 

「あ、え?あの・・・。」

気づくと私の身体は速人さんの腕の中にすっぽりと埋まっている。

「好きな女が泣いてるのを放ってはおけないだろ。」

泣いてる?

私は泣いているの?

その時初めて頬に伝う一筋の雫に気づいた。

「でも・・・。」

私は戸惑いつつも抗うことはしなかった。

彼の力強い腕の中はあまりにも心地良くて、ドキドキする反面なぜか安心できたから。

 

「松井さんはその婚約者は好きじゃないんだな?」

「ええ。月一度の食事と、何かのイベントの時に顔を合わせるだけです。それ以外は一緒にでかけたこともないし、でかけるつもりもないですから。」

「じゃあ、俺にもまだチャンスはあるわけだ。」

「え?」

「紀美香。」

「はい?」

「そう呼んでいいか?」

「いいですけど。」

私は意味がよくわからず頷いた。

 

「その婚約者の名前、聞いていい?」

「あ・・・林葉怜司・・・です。」

なぜ彼がそんなことを聞いてきたのか、不思議に思いつつも私はなんの躊躇もなく答えた。別に名前を言ったこところで、何かが変わるというわけでもないし、彼が林葉さんと接点があるとは思えない。

「そうか。」

軽く頷いて、それ以上は何も聞いては来なかった。

 

そして、少しだけ仮眠を取ったらどこかにでかけよう、という彼の言葉に私は大人しく頷いた。

朝方のお風呂に浸かって、彼の大きすぎるパジャマを借りて、彼のベッドに横たわる。

それはどこか不思議な気分にもなり、またどこか父に対する小さな罪悪感が入り交じっていた。

 

一緒に寝ようか。

 

そう言われて、頷いた。

正直一人になりたくないと、思っていた。

きっと一人になればまたあれこれ考えてしまうだろうから。

軽い気持ちだったわけではない。ただ、彼の側にいたい、と思ってしまった。

だから何をされてもいい。ちらっとそんな風に考えた。

けれど、何もしない、と言っていた彼の言葉通り、彼はただ私の隣で眠った。

 

綺麗に整った顔をぼんやりと眺めながら、ふと考えた。

彼はこのダブルベッドで何人の女の人と夜を共にしたのだろうか。

噂がすべてではない、と話をしてわかったけれど、この美しい顔に惹かれる女性はさぞたくさんいることだろう。それは社内の様子を見ていても一目瞭然だ。

彼は一体どんな人と付き合ってきたのだろうか。

私のような女がただ珍しかったのだろうか。

彼を信頼しようとする反面、まだどこか彼を疑っているところがある。

 

けれどかまわない。

たとえ、彼が私を見放しても、それはまたいつもの日常に戻るだけなのだから。