【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 4/12

副社長は何も話さない私を連れて会社からほど近いマンションへ入った。

ドア横の表札から、すぐにここが副社長の住むマンションなのだと気づいて、私はドアの前で固まってしまった。

何も言わずのこのこついてきてしまったけれど、この時間に副社長の部屋にあがるのはものすごく失礼なのではないだろうか。

 

「あの、私帰ります。」

「どこに、どうやって?」

「えっと・・・。」

「ウチの社員の女の子を1人、夜の街にほっとけるわけないだろ。なんかわけありのようだし、その前に風邪でも引かれたら困る。」

 

わけあり。

やっぱりそう見えるよね。

会社の前でカバンも財布も持たず立ちつくしているなんて。

「心配しなくても何もしないから。」

「・・・。」

それは私が手を出すほどもない女だという意味だろうか。

それとも上司だから社員の女に手を出すはずはない、という意味だろうか。

どちらにしても私はきっと女として見られてはいない。

「どうぞ。」

鍵を開けて背を軽く押してくれた副社長に、私は小さく言った。

「社員に手を出したりしたら問題になりますもんね。」

そんな挑戦的なことを言うつもりなんて全くなかったのに。

ただ行く当てもない私を、かわいそうだと思って連れてきてくれただけなのに。

どうして私はこんなことを言ってしまったんだろう。

副社長は何も関係ない。

 

「そういう理由じゃない。俺は松井さんが好きだから。困らせるようなことはしない、という意味だよ。」

「え?」

私は思わず副社長の顔をじっと見つめた。

今、副社長は私のことを好き、と言ったの?

「嘘・・・。」

まるで信じられない、という顔をしていたのだろう、彼は軽く笑みを含んだ表情で私の肩に手を回すと、そのまま反動で中に入れられてしまった。

「夜は冷えるだろう。」

ドアの鍵が閉められた瞬間、もう戻れないのだと思った。

何かを期待しているわけではなかったけれど、こんなに簡単に男の人の家に上がるのは初めてだった。

私は副社長に促されるままに、リビングへと足を踏み入れる。

 

電気がついて明るくなった広い空間にはソファとテレビしか置かれていない。

ダイニングの方にもテーブルなど一切なく、カウンターテーブルのところに背の高い椅子がひとつ。

雑誌や雑貨なども全くない、生活感など全くない広い広い、部屋だ。

「ひとり、暮らしですか?」

「ああ、寝に帰るだけの部屋だからな。ソファにでも座ってて。」

一人暮らし。

そんな気がしないでもなかったけれど、なんとなく知らない一面が見えて不思議な感じだ。

 

それに男の人の部屋はもっと汚いものだと思っていた。

父は部屋の片付けなどは一切しないし、何かを買ってきてはリビングに飾ったりしているので物で溢れかえっている。

友人の彼氏も一人暮らしの部屋はそれはもうヒドイ場所だからあまり行きたくないと言ってたこともある。

どちらかといえば、私は何もない部屋のほうが好きだ。

友人の部屋も必ずぬいぐるみがたくさん置いてあったり、写真が飾られていたりする、とにかく“女の子”の部屋だ。

それに比べると、私の部屋は本棚と勉強机とベッドしかないなんともシンプルな自室。

なんとなく似ているかもしれない。

 

副社長は温かいココアを入れて持ってきてくれた。

「あ、ありがとうございます。」

いつもコーヒーしか飲んでいないイメージがあるけれど、ココアなんてものを置いていることが意外だった。

そんな気持が表情に出ていたのか、副社長は「甘い物は苦手なんだが、たまに疲れた時に飲むんだ。」と教えてくれた。

 

「副社長は、お仕事されてたんですか?」

「週末は休みたいからな。なんとか終わらせてきた。」

「そうですか。」

社員が帰ったあとも仕事をしているんだ、この人は。

副社長がこんなにも仕事をしていることを知っているのはどれほどいるだろう。

多くの女子社員は、華やかなアフター5(・・・うちの会社ではアフター6だけど)を過ごしていると噂している。

「ずっと気になってたんだが、役職名で呼ぶのやめて欲しいな。」

「え、でも。」

戸惑いを見せる、私に「会社では仕方ないか。」と笑った。

「そんなに偉いわけじゃないからな。堅苦しいんだ正直。」

そういうものなのかな。

でも確かに社長とか副社長ってイメージではもっと年配の人って思っていたところがある。

うちの会社は管理職の人もみんな若いからあまり気にしたことはなかったけれど。

「じゃあ、浅風さん。」

「できれば下の名前がいい。」

「・・・速人さん、ですか?」

「ハイ。」

速人さん、と呼ばれた彼は嬉しそうににっこり微笑んだ。

 

彼はなんの戸惑いもなく私の隣に座って、テレビをつけた。けれど、音量は小さい。無言の空間を作らないようにそうしてくれたのだと思った。

朝の時間しか話したことはなかったけれど、その少ない時間の中ですごく心配りの出来る男の人だと感じていた。

あまりにもさりげないので気づかないで終わってしまうこともあるほどに。

 

「松井さん。」

「はい。」

「俺は、君が好きだ。聞き間違いでも、嘘でもないからそれだけは知っておいて。」

「・・・。」

この人は、気配りだけじゃなくて、人の心を揺らがすのも上手い。

どうしてこのタイミングでこんなことを言うのだろう。

「彼氏がいるようだから、それ以上のことを言って困らせるつもりはない。ただ、力になれることがあれば何でも言ってくれれば協力する。」

「そんな・・・。」

都合のいいことなんてできない。

そもそも、この人のどこまでを信じていいのかもわからない。

 

「どうして私なんですか・・・。」

その理由がわからない。

戸惑いを隠せない私に、副社長は一瞬間をおいて、微笑んだ。

「松井さんの良さは俺が知ってる。朝一番に来て課の全員のデスクを拭いて、お湯を沸かして、ゴミが残ってればゴミ捨てにも行ってるし。仕事はきっちりやってるし、どんな仕事もイヤな顔ひとつせず完璧にやってるだろ。言われた以上のことをやってるって経理課長の大沢さんも褒めてたよ。」

「1年目だし、当たり前のことをしているだけです。」

「その当たり前のことができない子は多いからな。」

そうだろうか。

みんなやってる気もするけれど。

 

「さて、両親は松井さんが会社に来たこと知ってる?」

「・・・。」

理由を聞かれるのかと思ったら、速人さんはケータイを手に私の自宅に電話をかけ始めた。

番号をどうして知ってるのだろう、と不思議に思ったところで、そういえば、私の社内での個人情報に携帯番号は非公開にし、自宅の番号を公開しているのだったと思い出した。

彼は私が止める間もなく、自分が副社長だと名乗り、流れるような美しい声で、私が忘れ物をしたと言って取りに会社へ戻ったものの電車がなくなり、財布も携帯もなかったので、会社の方でホテルを取って泊まらせたから心配しないように、とおそらく電話口の向こうの母に言っているのが分かった。

たぶん母は全く疑いもせず、それを信じたであろう口ぶりだった。

そういえば昔、速人さんは営業でいろんな人を相手にしてきたと話していたから電話対応などお手の物なのだろう。

 

「これで問題なし。」

イタズラっぽい笑みを浮かべてそう言った彼が妙におかしくなって、私はあはは、と声を出して笑ってしまった。

「嘘は言ってないだろ?」

「嘘だらけだと思いますけど?」

「そうか?どうせ忘れ物したって言って会社に乗り込んで仮眠室使う気だったんだろ?もしあの場所に立ってたのが松井さんじゃなかったら、ホテル取って泊まらせてたよ。」

「え・・・。」

「松井さんだからここに連れてきただけ。」

私は初めて顔を赤らめた。

それまではどこか彼の言葉が信じられなくて、半信半疑で聞いていたところもあり、イマイチどう反応していいか分からずにいたけれど、あまりの突然のこの発言に私は思いっきり恥ずかしくなった。

もしかして本当にこの人は私のことが好きなのだろうか。

 

「部屋、母が来たときに泊まる和室があるからそこを使えばいい。ちゃんと布団もあるから。」

どうして私が深夜に会社の前に立っていたのか、一切事情を聞こうとはしない。

家庭内で何かがあったのだろうと、それだけを察して家にもああやって電話を入れてくれた。私が家に帰ったときに大きなトラブルにならないように。

 

「松井さん?」

俯く私を心配そうにのぞき込む綺麗に整った顔に、なんの裏もないように思えた。

「すみません、いろいろと。」

「本当は聞きたいんだけどな。」

「え?」

「真面目な松井さんが財布も持たず家を飛び出してきた理由。家に帰りたくない理由。」

「・・・。」

「頬も腫れてる・・・。叩かれたんだろ?」

私は思わず自分の手で頬を隠した。今更こんなことをしても遅いけど。

やっぱり腫れていたんだ。

 

「よく見せて。」

彼の指先が触れる。

細長くて綺麗な指が一本、二本。頬を滑るように優しく。

私は自分の手をするり、と落とした。そうしないと、手が重なり合ってしまう。

大きな手のひら。

誰かにこんな風に触れられたことはない。

私の手は小さい方だからよけいに大きく思えるのかもしれない。

「少し冷やそうか。」

「だいじょうぶ、です。」

顔が近づいて、耳元で囁かれているような気がして鼓動が高鳴る。

「え?」

軽く頬に唇が触れて、私はさっと身をひいた。

「キスしたくなる頬だな、と思って。」

「・・・。」

この人は・・・。

「女の人に、そういうことばっかり言って口説いてるんですか?」

「ハハ、まさか。自分から口説いたことは一度もない。」

口説かなくても寄ってくる、って言いたいのね。

どこからどこまでが本気なのかいまいち掴めない。

「何か冷やすものもってくるよ。」

 

けれどひとつひとつの言葉があまりにも優しく聞こえるのは事実だった。

私はキッチンに向かう速人さんの後ろ姿を目で追いかけた。

 

話してみようか。

これまで誰にも話せなかったことを。

こんなに簡単に信用して、馬鹿をみるかもしれない。

でも、たとえ話して呆れられても、今以上に状況が悪くなることはないはずだ。

 

私は彼が戻ってくるのを見計らって唐突に口を開いた。

 

「私、婚約者がいるんです。」