【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 3/12

その日は残業だった。翌日が土曜で休みになってしまうためにどうしても終わらせなければならない仕事だった。

家に帰ると父が先に帰っていて、不穏な空気が流れているのがすぐにわかった。

父は私が遅く家に帰ると機嫌が悪くなる。

どんなに仕事だったと言っても、どこで誰と何をしていたと詰め寄ってくる。

今の時代、会社に勤めていて定時通りに帰れるはずがないことを父は理解してくれない。それは古い体質が根強く残る役所勤めをしているからだ。

まだ都内の役所ならば良かったのかもしれなかったが、私の実家は都外だ。就職して一人暮らしをすることも許されず、片道1時間半かけて通勤している。

私は二十歳を過ぎて、大人になり自分でお金を稼ぐようになっても父の呪縛から逃れることはできない。

女の幸せは結婚し子どもを産み家庭を守ることだと信じて疑わない時代錯誤な考えを持った人間が、今どれほどいるだろう。すでにマイノリティになりつつあるその考え方を持つ輪の中にいる1人が私の父だった。

 

「紀美香、何をしていた。」

おかえりなさい、の言葉もなくリビングのソファに座って表情を崩さない父が聞いてくる。

「仕事。今、忙しい時期だから。」

「またそんな嘘を。飲み会やら合コンとやらに参加してきたんだろう。」

飲み会や合コンではこんなに早くは帰ってこれない。

少なくとも都心で飲んできたなら日付は変わっているはずだ。

「・・・。」

何も答えないでいると、母が不安げな目で見守っている。

ここで、私が黙っておくのが得策だと、今までの経験上わかっている。

「これだから、紀美香の就職には反対だったんだ。さっさと結婚していればいいものを。女が仕事など中途半端なだけだ。」

 

父は私が働くことには反対だった。

大学へ行くことは良妻賢母として賢い妻になるために行かせたのだと、就職をさせるためではない、と何度となく言われた。

何も言わないで素直にハイ、と聞いておけばいいものを、この日の私は少しだけ疲れていたのだ。

 

「女性の社会進出は今じゃ普通でしょ?」

私は立ったままそう言った。

父はぎろりと私を睨みつける。

「結婚したらさっさと仕事を放り投げてやめるのにな。社会進出とはよく言うよ。単なる結婚相手探しをしているだけだ。」

「・・・。」

確かにそういう女性も中にはいるだろう。

「私はやめない。結婚しても仕事はやめないつもりだから。」

私にとって今の職場は唯一安らぎの場所なのだ。

この重苦しい空気から解放される唯一の場所。

働くことは嫌いじゃない。むしろ楽しいと思う。

仕事ができて褒められて、責任のある仕事を任されると、それだけでも自分はここにいていいのだと思える。

もちろんまだまだたいした仕事はさせてもらえないけれど。

「何を言っている。」

父が思わず立ち上がる。

 

「紀美香、お腹すいているんじゃない?ご飯にしましょう。」

母はこの空気を少しでも変えようと口を挟んでくる。

けれども、睨み合った私たちを止めることは、母にはできない。

父の理想とする良妻賢母をきっちりとこなしてきた母なのだ。決して父には逆らわない。

 

「怜司君は承諾しているのか。」

「いいえ。」

怜司とは私の婚約者だ。

私には全く興味のない婚約者。

私が仕事を続けようか続けまいがどちらでもいいのだ。そんなことに口を挟むことすらない。

 

「お前は、結婚する相手に従うのが女の義務だろう。何を馬鹿なことを言っているんだ!」

「好きでもない相手に従えるわけないでしょう。」

「お前・・・自分が何を言っているかわかっているのか。」

 

「紀美香。」

母が首を横に振りながら、目ではもう父に逆らうのはやめなさいと訴えている。

そんなことわかっている。

この父には何を言っても無駄なことくらい。

けれども、この日の私は本当にどうかしていた。

 

私は人を好きになる資格すらないのだと、そう言われているようで。

もしも、私に婚約者がいなければ、あの日、副社長にクリスマスの予定を聞かれたとき、何もないと言えていれば、彼は私を誘ってくれたかもしれない。

たとえそれが一時のお遊びの相手だとしても。

私は他の女の子たちのように一緒に騒いで喜べたかもしれない。

好きになるのは自由だから。

たとえ失恋することになっても、人を好きになることはできるのに。

けれど、それすらも許されない。

 

「どうして好きでもない相手と結婚なんかしなきゃいけないのよ!」

「それはお前がろくでもない男にひっかかるからだろう!」

 

ろくでもない男。

父は私の初恋の相手をそう言う。

彼は、母子家庭で育ったから、いわゆる私生児だった。それが父は気に入らなかったのだ。

高校生の頃、私たちは付き合っていたのを無理矢理引き離された。

手をつなぐだけでドキドキして、高校生にしては本当に純粋なおつき合いだった。

別に将来を誓い合うとか、そういうわけではない。

ただ、一緒の大学に行きたいねと、お互い励まし合いながら勉強を頑張る、そんな今思えばほほえましくもかわいいおつき合いでしかなかったのに。

父はそれすらも許さなかった。

 

「彼を悪く言わないで!」

 

パンッ!!

 

頬をぶたれるのが、スローモーションのように感じた。

 

私はそのまま家を飛び出した。

「紀美香!」

母の呼び止める声が聞こえたけれど、私は振り返ることなく走って駅へと向かった。

行く当てはない。

けれど、家にも帰りたくない。

 

気がついたら、会社のある駅で降りていた。

さっきまで仕事をしていた場所に再び戻ってきてしまった。

家までの電車の終電はすでにもうなくなっている。

都心を走っている電車ももうすぐなくなる時間帯だ。

行く当てがないから会社に・・・なんて馬鹿みたいだ。けれど、友達のところへは行けない。

友達の家に行こうものならまた父が何を言うかわからない。

 

悪い友達にたぶらかされて。

そんな友達との付き合いは許さない。

 

そんな風に言われるのは目に見えている。

ビジネスホテル・・・と思ったけれど、気づくとカバンは家に置いてきたらしく、たまたまコートのポケットに入れていた定期しか手元になかった。これでは泊まれるはずもない。

会社の入っているビルの前で呆然と立ちつくす。

もはや社内に残っている人はいないだろう。

会社には仮眠室がある。

警備員さんに忘れ物をしたと言って中へ入れてもらってそのまま泊まろうか。

でもきっと出てこなければ怪しまれて警備員さんは探しに来る。

 

「松井さん?」

 

近寄る影に、私ははっと頭を上げた。

 

「副社長・・・。」