【春夏秋冬、花が咲く】冬の小鳥 - 2/12

副社長は次の日の朝も、私の前に現れた。

昨日よりも少し早い時間帯だ。

ちょうどお湯を沸かし終えて、休憩室に入った頃だ。

「おはようございます。またお泊まりになったんですか?」

「いや。今朝は松井さんと一緒に読書でもしようかと思って。」

突然何を言い出すのだろう、この人は。

私が目をぱちぱちと見開いていると副社長は二人分のカップのコーヒーを買って、ひとつを私に差し出した。

「どうぞ。ブラックでよかった?」

「あ、はい。・・・お金。」

私はビニールの透明なバッグから財布を取り出そうとした。私物は持ち込み禁止なため、貴重品は中身の見える透明なバッグに入れて持ち歩くことが義務づけられている。けれど多くの女子社員はパウダーケースやら、ハンカチやらとごちゃごちゃ入れているためいつもパンパンになる。

「80円のコーヒーくらい上司に奢らせればいいんだって。」

副社長はにっこり笑うとコーヒーの入ったカップを私の手に持たせた。

「ありがとうございます。」

私は素直に頭を下げた。

あまり奢ってもらうことに慣れていない私は、こういうときどうすればいいか迷う。入社してから歓迎会を含めいくつかの飲み会に誘われたけれど、出たのは最初の歓迎会と、総務部の歓迎飲み会だけだ。

その二つとも新入社員はもちろんお金なんて払っていない。

 

「昨日の本、もう読み終えたの?」

「はい。」

私が今日は別の本を持っていたので、副社長は「俺も読み出したら最後まで読まないと気が済まないんだけどな。」と笑った。

同じだ。

私も読み出したら最後が気になってしまって、他のことが手につかなくなってしまう。

学生の頃はよく朝方まで読みふけってしまって、講義の時に居眠りをしてしまったことが何度かあるほどに。

働きはじめてからは、さすがに睡眠をとらないと仕事にならないのでそういうことはしないように心がけてはいたけれど。

「今日持ってきてる?」

「・・・いえ。」

まさか本当に借りるつもりだったのかな。

「あの・・・。」

「ん?」

「昨日の本、結構暗い結末だったので、あんまりお薦めできないんです。」

「そうか。そういうこと言われると読みたくなったりするんだけどな。」

そういうもの?

けれど、とことん暗い話だった。

最初から最後まで、主人公は不幸のまま、最期の時を迎えて・・・なんだか後味が悪くて、その後明るいマンガを読んでしまったくらいに。

「副社長はどんな本、読まれるんですか?」

「んー、ミステリーとかが多いかな。高野白夜とか。」

「あ、私も好きですよ。展開が早いからいっきに白夜ワールドにひきこまれるっていうか・・・結末もいつも意外性があって面白いし。あ・・・。」

やだ。

私ってば思わず友達に話すような勢いでしゃべってしまった。

どうしよう。相手は副社長。

「松井さんてそういう顔もするんだな。」

「え?」

「いや、いつも表情崩さずに仕事してるから。ああ、笑いながら仕事してても怖いか。たまにいるんだけどな。仕事しながら笑ってるやつ。何考えながら仕事してんだよ、ってつっこみたくなるくらいさ。本人は楽しそうだけど見てる方は怖いよな。」

「え、そんな人もいるんですか?」

「いるいる。時々見回してごらんよ。」

副社長は私の態度に嫌な顔をすることはなく、むしろ喜んでいるかのようにいろんな話をしてくれた。

社内の人間観察はけっこう面白いのだと何度も言っていて、そんな暇があるくらいなら仕事しないといけないんだけどな、なんてちょっといたずらっぽく話す姿が印象的だった。

そんな風に話をしているとあっという間に時間が過ぎてしまう。

手にした本を一行も読むことなく、その日の朝の時間は終わってしまった。

副社長は一体、何がしたくて朝早くから休憩室までやってきたのか、私はぼんやり考えた。

一緒に読書・・・なんて本当にそんなつもりだったのだろうか。

 

けれど、副社長は次の日もまた同じ時間に現れた。

そしてなにげない世間話をして時間が過ぎていった。それはその次の日もそのまた次の日も、変わることなく続いた。

もちろん休みの日まで来ているなんてことはないはずだけれど、出社日には必ず朝、同じ時間にやってきた。

二人で過ごす朝の短い時間がまるで当たり前のようになっていくのを、私はどことなく嬉しく思っていて、なぜだか朝が来るのが待ち遠しくなっていた。

世間話で盛りあがる日もあれば、二人でただ読書をするだけの日もある。けれどそれは窮屈とか気まずい空気とかではなく、むしろ心地よく思えた。

どういうつもりで副社長がこんな風に私と朝の時間を過ごしているのか、不思議に思い始めた頃、副社長が私に尋ねた。

 

「松井さん、クリスマスイブは約束ある?」

季節はもう秋から冬へと移る準備を始めた11月の終わりだった。

「・・・はい。」

「そうか。残念。」

もし私がいいえ、と答えたならば、どうするのかな。

「彼氏くらいいるか・・・。」

「・・・そうですね。」

彼氏というよりは婚約者、と言った方が正しい。

私には婚約者がいる。

クリスマスイブは決められたレストランで食事をする。まるで儀式のように。

特に楽しい話題もなければ、食事の後にどこかに行くわけでもない。

ただ淡々と食事をして、その後すぐに別れるのだ、きっと。

 

副社長はそれ以上何も訊いてはこなかった。

それがなんだか少し淋しくもあったけれど、聞いてこられて困るのも事実だった。

副社長はどういうつもりなんだろう。

彼が声をかける相手は決して私ではないはずなのに。

もっと相応しい女性がいるはずなのに、なぜ私にクリスマスの予定を聞いたりするのだろう。

 

翌朝から、副社長はもう現れないと思っていたのに、いつものように現れてドキリとした。

なぜもう来ないと思ったのか。

自分でもよくわからないけれど。

 

副社長との朝の短い時間がなくなることはなかった。

 

週末、私は婚約者と会う。

林葉怜司。二つ年下の派手な男。

まだ大学生のこの人は、髪も金髪、服装もだらしなく着こなしていて、会社にいる”仕事をしている男の人”たちとはまるで違う。

外見だけで判断するつもりはないけれど、この男の性格のだらしなさは絶対に服装に表れているのだと思っている。

そんな風に人を評価している私自身もそれほどの人間ではないけれど、少なくともこの人よりは常識があると自負しているつもりだ。

そう思わなければ、きっとやっていけない。

「じゃあ、イブは8時でいいよね。」

「ええ、たぶん大丈夫だと思います。」

月に一度定期的にある婚約者との食事。

形式的な二人の外食。

食事の後、この男は別の女と会っているのを私は知っている。

 

「それじゃ。」

「ええ、また。」

あっけないほどの別れ。

 

あまりに早く家に帰れば怪しまれるし、帰りたくもない。

一人だけの時間を有意義に使うために、やりたいことはたくさんあるのだ。

そうして、私は雑踏の中に紛れ込む。

誰も私を知らない。

そんな中にいることにささやかな安堵と小さな不安の両方を感じてしまうのはなぜだろう。