「これでいいんですか」
「ああ」
「なんか緊張しますね」
「そうだな」
空音が震える手で書き終えたのは、婚姻届。
結婚式は身内だけで行い、披露宴はどうやら豪華になるらしい、と空音は聞いていた。披露宴に関してはすべて柊弥に任せていたが、結婚式はひとつだけ、希望を告げた。
―――バージンロードはお兄さんと歩きたい。
その後向かったのは新居だ。空音が大学受験に集中している間に、新居のリフォームは完成していた。家具や荷物の搬入などもだいたい終わっているようだったが、空音はまだ足を踏み入れてはいなかった。
向かいながら思い出したように柊弥が言う。
「島田夫妻にも招待状を出すが、かまわないだろう?」
「島田……麻衣ちゃんですか?」
柊弥は頷いた。
「あの二人の結婚式に出席しなければ、私は空音に出会うことはなかっただろう」
「キューピッドですね」
ふふ、と笑う。
自分の演奏が誰かの心に残っていた、というのは空音にとってはとても嬉しいことだった。と同時に、そこから自分の運命は大きく変わってしまった。
きっかけは日常のどこかにいつだって潜んでいるものかもしれない。
「柊弥さん、内装はもう見たんですか?」
「いや、空音と一緒に見ようと思っていたからな」
空音がこれまで過ごしていた本邸ほどの豪邸ではないが、小さくもない邸宅はまるで新築のように生まれ変わっている。
「すごいですね。リフォームってこんなに変わってしまうんですね」
1階は玄関ホールから音楽ホール、そして客間。小規模なパーティができるように玄関ホールと音楽ホールは一間になるように設計されている。そして2階が居住スペースである。
アットホームなリビングダイニングに、夫婦の寝室、空音の私室、柊弥の書斎、あとは空き部屋は二室。
離れには住み込みで働くスタッフたちの3LDKの建物が続いている。
「わたしが仕事でなかなか帰れないときは和義にいてもらえるようにしようと思っている」
「本当ですか?」
空音は思わぬことに嬉しさを隠せないでいる。和義は今、都心のマンションで一人暮らしをしているからだ。
「その方が安心だからな」
音楽ホールに足を踏み入れるとピリッとした緊張感があった。
グランドピアノと小型の電子パイプオルガンが置かれている。
「両立はできそうか?」
「ピアノは母も好きでしたし。柊弥さんもお好きなので。どちらも頑張ります」
学園祭でのピアノ演奏の映像が様々な場所で拡散されたため、空音の才能は世に知られることになった。空音の知らないところで、歌手とのコラボでミュージックビデオ制作の話や、演奏会をしてほしいという依頼もあったようだ。
すべての依頼は大学受験後、無事大学生になってから検討する、という立場を貫いていたためか、今、現在はいろんな話がきている。
空音はそっとパイプオルガンの鍵盤に触れる。
「電子で申し訳ないが」
「そんな、十分です」
「何か、弾いてみるか?」
「いいんですか?」
「当たり前だろう。空音がいつでも練習できるように、と置いたのだから」
それを聞いて空音は椅子に腰をおろす。
「”蒼き月の調べ”はもともとオルガン用に作られたものだそうです」
空音はそうつぶやくと、音を奏で始めた。
音楽のコンサートホールのような音響ではないが、家庭での最高の音を奏でられるよう設計してあるその部屋に、美しく響き渡る。
空音は柊弥のちらりと見上げた。彼の前で最初に弾いた曲。
弾き終えると、複数の拍手が空音の耳に届いた。
驚いて見渡せば、馴染みの顔が並んでいる。
空音の奏でる美しい音色に導かれ、新しい邸内で作業していた使用人はじめ、峰子や甲斐、和義も顔を見せていた。
その中には久しぶりに会う懐かしい顔をみつけて、空音は思わず、あ、と声をあげる。
「竹下さん、どうして」
「空音ちゃん、お久しぶりです」
空音の祖母が料亭を経営していた時に、従業員として働いていたシェフだった。
「わたしが呼んだんだ。今日から、ここで住み込みで働いてもらうことになった。山田さんも年だから、おばあ様の家とこちらを行き来するのも負担が大きいからな」
峰子とは完全に生活時間が違ってくるため、お互い負担にならないように、と峰子は自身が結婚当初に新婚生活を送っていたという建物へ移るのだ。
空音たちの新居のすぐそばにある。
ゆえに、いつでもこんな風にみんなで集まることができる環境だ。
「空音が、私の父に言ったんだろう?新しいかたちの家族を作れないかと」
空音は驚いて柊弥の顔を見た。
「血のつながりがあるとかないとか、親だとか子どもだとか、そんなものは関係ない。新しい家族をここからつくっていければと思っている」
「柊弥さん」
柊弥が忙しくて家にいられないときにでも、空音は決してひとりになることはない。いつでも誰かがそばにいてくれる。
「路緒さんが亡くなられたと聞いて、ずっと空音ちゃんのことを案じていたんです。そうしたら、ここで働かないかと誘っていただいて、空音ちゃんがお元気そうで本当によかった」
「竹下さん、わたしもすごく嬉しいです」
竹下シェフは妻とともに離れへ引っ越してくるという。その妻とも空音は顔見知りで、家政婦として働いてくれることになった。
そんな配慮をしてくれた柊弥を改めて尊敬のまなざしで見つめていると。
「いいなー、俺も引っ越してこようかなぁ」
甲斐が楽しそうに呟いている。
「お前の立派な家は、ここからそれほど遠くもないだろう」
「えー、そうだけどさ。さっさと自立しろとか出てけとか言われちゃってるからさぁ」
「そのうち棲みつくなよ」
甲斐と柊弥の会話を聴きながら、皆笑っている。
「空音さん、私もリクエストしてもいいかしら」
峰子が空音に向き合うと、空音は頷いた。
音楽と笑顔であふれるこの空間には明るい陽光が差し込んでいた。
END