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「一時はどうなることかと思ったけど、無事合格おめでとう」
音大合格後、甲斐が一番にお祝いをもって訪れてくれた。
「ありがとうございます。甲斐さんのおかげです」
「いやいや、最後の追い込みの集中力はすごかったもんね。本番で身体を壊すんじゃないかとひやひやしてたけど」
お祝いの大きな花束を抱えながら、空音はほほ笑む。
「でも、これからの方が大変か。大学生と海棠家の妻との両立だもんね」
「妻…?」
「あれ、大学入学前には籍を入れて、海棠姓で入学させるって柊弥は言っていたけれど」
「あ、そういえばそうでした」
「忘れてた?」
「合格することしか頭になくて……」
「そうだよね。じゃあこれから忙しくなるね。大学でもいろんな意味で注目されるだろうし。あ、そうそう尚弥って覚えてる?柊弥の弟」
「あ、はい」
「今度お詫びに来るって」
「お詫び?」
「なんか以前に失礼なこと言ったんだって?」
「そんなに失礼なことは言われてないと思うんですけど」
「あいつも、いろいろ荒れてた時期があって、口は悪いけどさ。でも、空音ちゃんの演奏には素直に感動してたよ」
「そうなんですか?」
「素直に言葉にできない兄弟だからねぇ。間に和義がいてちょうどいいのかもしれないけど」
「甲斐さんも、いつも柊弥さんたちを助けてくれますよね」
「ハハハ、もう腐れ縁だからね。柊弥なんて真面目で不器用だからさ。あれでもっと偉そうに傲慢な態度ばかりとられていたら勝手にしろってなるけど、放っておけないでしょ」
「そうですね」
「柊弥は、いずれ周囲に勧められるがままにそれなりの家のお嬢さんと結婚してしまうんじゃないかと心配していたんだ。けれど、柊弥は君を見つけた。本当によかったよ」
笑顔の甲斐に、空音もほほ笑む。
「まあ、これからもよろしくね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
卒業まであとわずか。校内に3年生の姿はほとんどない。空音は3年間過ごした学園をゆっくり歩いた。まだコートが必要なほどの寒さだが、桜の蕾は日に日に膨らんでいる。
入学したときには想像もしていなかった自分がここにいることが不思議で仕方なかった。
入学当初とはあまりにも変わってしまった環境と現実がいまだに夢ではないかと思う時が度々ある。
「杉山さん」
振り返ると、正木朋美が立っていた。
「正木さん」
「お久しぶり。風蘭大、合格したんですってね。おめでとう」
「あ、ありがとう」
「いろいろひどいことを言ってごめんなさい。本当は知っていたの。ピアノの先生たちの間で、あなたのこと噂になってたことがあったから。調理科にいるのはもったいないって。でもまさか本当に音楽科に転科してくるとは思わなかった。聞いてもいい?」
「な、なんでしょうか」
「どうして本気で音楽をやろうと思ったの?」
心を貫かされそうなほどまっすぐに向けられた視線に空音にどきりとした。
「音楽は好きです。でもそれなら趣味で続ければいいと思っていました。でも、私のピアノで心が癒されると言ってくれた人がいます。自分の好きなことが誰かのためになるなんて思ったことはなかったんです。だからもっと学びたくて、その学ぶチャンスを与えてもらえたので、頑張りたいと思いました」
「それが、理由?」
空音はゆっくりと頷いた。
柊弥の穏やかな表情、そしておぼろげな母の笑顔と、柊弥の母に会ったときのことが重なって次々に脳裏に浮かんだ。
「幼い頃、私がピアノを弾いたら母がとても喜んでくれたこと。上手く言えないけれど、原点はそこにあります」
「そうね。そういうものかもしれないわね。上手く弾けるとね、わたしの母もとても喜んでくれるもの。その顔が見たくて頑張っちゃう。でも本当は自分の気持ちも大切にしなきゃいけないのよね―――わたし、海外へ行くことにしたわ。もう一度、最初から音楽に向き合ってみようと思って」
そう言った彼女の表情はどこか晴れ晴れとしていた。
「あなたも、いろいろ大変だと思うけれど、お互い頑張りましょう」
「いつ、発つんですか」
「卒業式が終わったら」
「正木さん、いろいろありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう。またどこかで会いましょう」
空音は手を振った。
出会いがあれば別れもある。別れがあるから出会いがある。
見上げると、空はどこまでも澄み渡っていた。
大切な人たちが、あの空の向こうの手の届かない場所にいる。それでも、自分は生きている。新しい家族ができる。
「空音ー!こっちこっち」
声の方を見ると、調理科の友人たちが大きく手を振っている。
今日はこれからお別れ会だ。
みんなの旅立ちを記念して。