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学園祭を無事に終え、帰宅した空音のためにささやかなお食事会が開かれた。
「空音ちゃん、お疲れ様ー」
「ありがとうございます」
「いろいろ面白かったよね、今年は」
甲斐は満足そうにワインを片手にしている。
「空音さんのいた調理科のフレンチレストランも大盛況だったようですね」
「そうなんです。けっこうみなさん1時間、2時間待ちでも平気で並んでくださって。わたしも途中からお手伝いに行ったんですけど、大忙しでした」
「あの学園は本当に生徒の自主性を大事にされているし、個性や才能をいかんなく発揮できる素晴らしい環境ですね」
峰子までがそう言ってくれると、空音も嬉しくなる。
「でも何よりも我らが空音ちゃんの演奏だけどね。柊弥はびっくりして固まってたけど」
「あ、おもちゃのちゃちゃちゃですか?」
「そう。いきなり陽気な童謡が流れるからね」
「学園祭は近隣の幼稚園や保育園の子どもたちが遊びにきてくれるので、どうしても入れたかったんです」
「あのアレンジは空音さんが?」
「はい。そのまま弾くだけじゃ許可しないって先生に言われたので」
「まあそうだろうね」
甲斐が笑うそばで、空音はさきほどからひとこともしゃべらない柊弥に視線を向ける。
「柊弥さん、驚きました?前にねこふんじゃったを弾いたときも難しい顔されてましたよね」
「そういえば、そんなこともあったな」
それは、まだ去年のことであったが、随分と昔のことのように感じられた。
食事も終盤、デザートを待っているとき、ふと空音が考え込んでいると、柊弥が心配そうな顔をしている。
「空音、どうかしたのか?」
「あ、いえ」
「もしかして始まる前に和義がいなくなったことが関係してる?」
甲斐に言い当てられ、空音は目をぱちくりさせる。
「だいたいの事情は俺も知ってるから話しても大丈夫だよ、ねえ?」
甲斐は柊弥と和義に確認するように視線を送る。
和義がすでに状況を説明していたのだろう。空音が何を考えているかなど大人たちには筒抜けなのかもしれない。
「静子さんは本当にお金が目的だったんでしょうか」
空音がぽつり、と話すと、柊弥がため息をつく。
「空音は傷つくだろうが、そういう人間は多い」
空音は静子に会ったことはない。もしかしたら幼い頃にあったのかもしれないが、まったく覚えてはいない。父のことを伝えるためだけに空音を探していたのか、それとも、自分とつながりのある姪っ子が柊弥と婚約したから、父のことを理由に空音に接触してきたのか、本当のところはわからない。
「あの男たちに唆されてはいたようです。空音さんに近づいて、あわよくば財産が手に入るかもしれないと言われていたのです。叔母は借金を抱えているようですからね」
「そうですか」
「ただ、最初からそれが目的だったかどうかは、わかりませんが」
和義が言葉を付け加えると、空音の脳裏には男たちに羽交い絞めにされた静子のことが思い浮かぶ。
「静子さんは利用されたってことですよね」
「やましい心を利用されたのでしょう」
複雑な心境ではあった。
そういう人間だと言われればそうかもしれないが。
「で、例の二人組の男は海棠家に恨みをもってた、ってことか」
「それだけではなく……」
甲斐の言葉に、和義は言葉を濁しながら峰子を見た。
峰子は軽く頷くと、一度瞑目し、それからゆっくりと言葉をつないだ。
「浜木綿家の血筋の方だった、ということですね?」
「浜木綿……」
空音は思いがけない名前が出たことに反応する。
「空音さんはご存知ね?」
「はい。祖母の生家だと聞いてます。縁を切っているので今後一切かかわることはないと」
「空音さんに話しておかなければならないことがあります。松野さん、お茶を淹れてもらえるかしら」
言って、峰子は姿勢を正すと周りを見回した。
「本来は、空音さんが成人するときにすべてお話するつもりだったのですけど、いろいろと事情も変わりましたからね」
峰子の声色はとても穏やかで優しかった。
「実は私は浜木綿家の生まれなのです。路緒さんとは従姉の関係になります」
え、と驚いて周囲を見渡すと、皆が理解しているという風に頷く。
「もしかして、それで峰子さんが私をひきとってくださったのですか?」
「それも理由の一つです。空音さんは以前にも私の元で一時的に生活をしていたことがあります。もう覚えてはいないでしょうけれど、幼い頃、身の安全を守るために」
「父の暴力で、母が病気になった時ですか?」
「そうです」
峰子は頷いた。
「少しだけ浜木綿家のお話をしましょうか。私がまだ10代の頃、浜木綿家はそれなりの資産をもつ家柄だったのですけど、ある事業に失敗し、大きな借金を抱えました。それで本家の生まれでたったひとりの娘であった路緒さんが旧財閥の名門の家へ嫁ぐことになったのですが、路緒さんは外国の方と恋におちて、浜木綿家とは縁を切りました。その後のことは空音さんもご存知ね」
空音は頷いて静かに峰子の話に耳を傾ける。
「路緒さんの結婚を条件に資金援助をとりつけていた浜木綿家にとっては路緒さんの駆け落ち同然の行動は許されるはずはありませんでした。私が海棠家に嫁ぐことで浜木綿家はなんとか存続はできましたが、浜木綿家には後継ぎにふさわしい方はおらず、その後断絶しました」
あまりにも自分の生きている場所とかけ離れた世界の話に空音は思わず息を飲んだ。
空音は祖母からそういった話を一度も聞いたことがなかったからだ。
生まれが浜木綿家にあることは話していたことはあったが、自由奔放に生きていたから勘当されたのだと笑いながら言っていた。
「結果として数年前に実家と和解した路緒さんがすべての財産を相続することになりました。路緒さんから相談を受けて、私と路緒さんとで土地や建物の売却、借金の返済等、浜木綿家に関する財産の処理を行いました。その上で、あなたに相続できる財産が少しだけ残りました。それらはすべて私が預かっています。路緒さんの遺言で、今後自立するまでのあなたの生活費、そして学費にあてるように、と」
空音は真剣なまなざしで峰子を見返した。
祖母がそんな事情を抱えていたこと、空音の将来をそこまで考えていたことを、全く知らなかった。
自分が体調を崩したときに、何かあれば峰子を頼るように何度も言ってはいたが、それは空音が峰子に懐いていたからだと純粋に思っていた。
「もしかして静子さんはそのことをご存知だったのでしょうか?」
「わかりません。空音さんを付け回していた二人組の男のうちひとりは浜木綿家の血筋の者だったのでしょう?和義さん」
「はい。おっしゃるとおりです。浜木綿家の事業はすべて海棠家が吸収合併しています。その時、浜木綿家の親族の中で失業した者もいました。その方の息子だということはわかっています」
「海棠家、浜木綿家の両家に恨みをもっていてもおかしくはありませんね。どこかで財産を相続した空音さんの存在を知ったのでしょう」
「静子は借金を抱えています。あなたの存在を知った時、あの二人組に会い、利害関係が一致したのでしょうね」
峰子と和義が交互に話す。
自分にそんな財産を残されていたことも初めて知った上に、様々な複雑な事情がからみあっていることに空音自身どうとらえていいかわからない。
「突然のお話で驚くのも無理はないわね。ですが、浜木綿家のことはもうあなたが気になさることはありませんよ。様々な苦労を負わせないために、すべての処理を私たちで終わらせたのですから。あなたはもうすぐ柊弥さんと結婚します。路緒さんの残した遺産をどうするかは空音さんの自由です。ゆっくりとお考えなさい」
「私としては空音と和義で決めればいいのではないかと思っている。生活費や学費は私が用意できるからな」
柊弥がそういうと、峰子も頷いた。
「私もそれが一番よいと思っております。路緒さんは和義さんのこともとても気にかけておいででしたから。自分とは血のつながりはないけれども、空音さんにとってはたったひとりのきょうだいなのだから、と。和義さんが密かに気にかけていらっしゃったように、路緒さんも同じように思っていたようですよ」
和義は双眸を見開いた。
空音の祖母は和義の存在を知っていたのだ。
ふと、空音は窓の外を眺めた。
もしかして、と。空音を和義とめぐり合わせてくれたのは、祖母だったのかもしれない。
「今の関係を一番嬉しく思っていらっしゃるのは路緒さんではないかしら」