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和義が遅れて柊弥の隣の座席に座ると同時に、照明がゆっくりと落とされる。
会場内のアナウンスが始まったところで、柊弥が心配そうに和義に声をかけた。
「大丈夫か」
「おそらく、大丈夫でしょう。後で話します」
和義がこたえたところで、深紅のドレスを身にまとった菊花みなみ―――鳳仙家と並ぶ音楽一家の長女が現れる。盛大な拍手が彼女を迎える。
「将来有望視されている生徒の一人だ。彼女は上手いよ」
甲斐が呟く。
毎年、クラシック曲と、流行曲を一曲ずつ入れるのが定番となっている。この場はコンクールではないが音楽関係者へのアピールにはクラシックのほうが有利だ。一般客向けには流行曲の方が盛り上がる。よって多彩なジャンルを弾きこなすというアピールのためにも選曲は大事である。
「ラヴェルか」
プログラムには曲名は記載されない。楽器と名前だけだ。
何の曲を弾くのか、どんな演奏ををするのかも、すべて自由なので学園祭ならではの楽しみ方だろう。
完璧な演奏で観客を喜ばせ、大歓声の中菊花みなみが退場し、続いて野口陽太が現れる。力強いリストとベートーベンはこれまた完璧に仕上げられている。
「彼は正統派だよね。さて、いよいよ我らが姫君の出番だ」
甲斐は隣の柊弥の顔をちらりと見やった。
野口陽太に続き、空音の名前が呼ばれる。
どこか異様な空気に包まれながら、空音が制服姿で現れる。先ほどの野口陽太も制服であったが、彼はコンクールでは常連者という武器をもっている。けれど、空音は前者ふたりにくらべると飾るものを何ももっていない。あるのは面白おかしく騒がれている玉の輿報道だけだ。
「なに、兄貴はドレスのひとつも用意してやらなかったの?」
尚弥が呆れたように甲斐に話かける。
「空音ちゃんが制服でいいといったんだよ、ねえ?」
「ああ」
「むしろ、飾らない方がいいよ、あの子は」
めずらしく空音の表情が硬い。
違和感を覚えた柊弥は和義をちらりと見る。和義もまたいつもと違う緊張感の中にあるようだった。何かを願うようにじっと空音を見つめている。
それにならい、柊弥も再び空音に視線を戻す。すると、最前列に座る柊弥たちを見つけてゆるやかに微笑んだ。
丁寧に頭を下げると、ひらりとスカートを揺らし、ピアノの前に座する。
旋律が流れ始めて、なるほど、と甲斐は頷いた。
「甲斐は知っていたんじゃないのか?」
「学園祭の演奏に関しては全くかかわっていないよ。たぶんずっと学校で練習していたんじゃないかな」
「そうか」
「空音ちゃんらしい選曲だよね。パッヘルベル。彼はオルガン向けの作曲家でもある。こういうところが空音ちゃんの強い意志というかこだわりが伝わってくるな」
流れるように、ゆるやかに、謡うように、音色が、観客を空音の世界に惹きこんでいく。独特の、それでいて心地よい世界。
人の心を捉えて魅了する―――。
しかし、次の瞬間、誰もの期待を裏切った曲が奏でられる。
そこまで彼女の美しくもあたたかい世界に包まれていた人たちにとって現実に戻るにはあまりにも唐突すぎた。
「やってくれるね、―――ここで童謡ときましたか」
前代未聞の選曲。幼い子どもたちを喜ばせる、おもちゃのちゃちゃちゃが流れると、どこからか子どもの歌声も聞こえてくる。
かなりアレンジされて、ところどころに高度な技巧も含まれているが、観客の誰もが呆気にとられているようだった。
表情を変えない柊弥の横で、和義はどこか安堵したように静かに笑みを浮かべていた。
ちょっとしたサプライズを挟んで、最後は『蒼き月の調べ』
鍵盤に触れる前、わずかに空音はくうを仰いだ。正確には空の果てしなく遠い場所を――――軽く瞑目し、再び秀麗な横顔が観客の心を捉えた。
痛くも切ない、そして優しいしらべは観客の心にしみこんでいく。
どこか神々しさを纏うその姿は静寂の中にぽつんと浮き上がっているようだった。
どんな飾りも必要ない。繊細な音のドレスが宝石が、幾重にも彼女を包み込んでいるようだった。
音に愛され、音を慈しむ。
音の中に棲んでいる少女。
空音がその演奏を終えると、会場は静まり返った。そして一瞬の静寂の次に大歓声と盛大なる拍手があった。
堂々と、背筋を伸ばしまっすぐに会場を見つめる空音は、全体を見回すと最初と同じように丁寧に頭を下げた。