【蒼き月の調べ】波瀾編 第3章 - 7/7

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海棠家に戻ると、和義は柊弥に空音と二人にしてもらえるように頼んだ。柊弥は拘りもなく頷く。

応接間に二人残され、和義は空音を見つめた。

家族を失ってからまさか”兄”がいるとは思ってもいなかったのだろう。

「あの……」

「お茶でも淹れましょうか」

和義は緊張気味にたたずんでいる空音にほほ笑むと、用意してあった茶器で湯呑にお茶を注ぐ。

「小学生の頃、何かのきっかけで自分には妹がいることを知りました。けれど、そのときは特に気にしたことはなかった。私と母をあっさりと捨てた男のその後の人生などどうでもよかったのです。私は母や祖父母と幸せに暮らしていましたから。けれど、以前にも話したように私は中学生の頃、立て続けに、祖父母、母を亡くしました。たったひとりになったのだと、そう思ったときはじめて妹の存在を思い出しました」

夏休みに入ったばかりの、暑い日だった。新しい住まいは知らなかったが、父の実家は知っていたので、ひとり、電車に乗った。

最寄り駅に着いて、おぼろげな記憶を頼りに、見覚えのある一戸建ての前まで来たところで、急に馬鹿らしくなった。

「父に会う気はありませんでしたから、なぜ自分はこんなことをしているのだろうと、ふと思った。今さら自分たちを捨てた男の幸せな家庭を見てどうするのだ、と。父の実家には誰もいないようだったので、再び駅に引き返しました。途中の公園を通ったその時、声をかけられたのです。小さな女の子でした」

暑い中、大きめの長袖のTシャツを着ており、袖を何重にも折り、やっと半袖になっているような状態だった。

細い腕や、スカートから見える足は打ち身だらけで、転んだにしては不自然な傷がいくつもあった。

「おさとうをかってきなさいと、いわれたの。おさとうはどこにうっているかわかりますか」

女の子は少し警戒するような視線を向けながらも、おずおずとそう尋ねてきた。

「砂糖?スーパーにあると思うけど」

「えきまでいけばある?」

駅にスーパーがあったかどうか和義は確かではなかった。

「僕も駅まで行くから、一緒に行く?」

「うん」

女の子は和義の後ろを少し距離をあけてついてきた。この炎天下の中、まだ4,5歳くらいの女の子がひとりでおつかいに行くことが普通なのかどうか、和義にはよくわからなかった。

また一緒に歩いていれば自分が誘拐犯のように見られるのではないか、と不安がよぎったが、程よく距離をあけてついてきているので知り合いとは思われないだろうと、なんとなく感じた。

「一緒に駅まで行き、私は駅の交番であなたを警察にあずけました。『村上空音』とその女の子は名乗りました」

「……覚えています。じゃあ、あのときのお兄さんが宮田さんだったんですか?」

「はい、あなたはこうも言いましたね。『ほんとうはいま、おとうさんとおかあさんがけんかをしているからいえをでてきたの』と。それを聞いて、あなたの姿が幼い頃の自分と重なりました。いつも犠牲になるのは子どもなのだと思い知らされた瞬間です。幸せそうな妹を見たかったわけではありません。けれど、自分と同じ境遇に陥った不幸な妹を見たかったわけでもなかった。家族を失い、中学生だった自分にはそれ以上どうすることもできず、その場を去りました。あなたがいつまでも見送ってくれていることに気づきながら、振り向かなかった」

「宮田さん、言ってくれましたよ。『元気でね』って」

「そうでしたか?」

「はい」

和義は淹れたお茶を口に含む。空音も思い出したように湯呑を手にした、

「社会人になって一度だけ、料亭を訪ねたことがあります」

「え、ほんとうですか?」

驚く空音に和義はほほ笑んで頷く。

「あなたは幸せそうに笑っていましたよ。安堵しました。それを見てもう二度と会うことはないだろう、と思っていたのですが、再びホテルであなたを見かけたとき、いや柊弥があなたに興味をもったとき、縁というは本当に不思議なものだと思いました」

「―――でも、宮田さんは今回のことがなければわたしのお兄さんだと話すつもりはなかったんですよね」

空音の言葉に和義は正直に頷く。

「あなたは兄の存在を知らない。わざわざ告げる必要もないでしょう」

「わたしは知りたかったです。……うまく言えないんですけど、宮田さんには何でも話せてしまうし、一緒にいるとほっとします。こんなお兄さんがいたらよかったのに、って思ったこともあるくらい」

ほろり、と空音の頬を涙が伝う。

和義はハンカチを取り出すと、空音の傍に寄る。

「―――もっと、もっと早くに教えてほしかったです」

和義は思わず空音を抱き寄せた。本来ならこういう役目は柊弥なのだろうが、この日だけは許されるような気がした。

和義にとって彼女はいつも大切な存在だった。

気にしないように過ごしていた日々であっても、この少女を忘れたことは一度もなかった。

小さな肩が震えている。

「もうしわけありません」

「出会った頃から、宮田さんはわたしに優しく接してくれました。本当にうれしかったんです」

「今の状況や、立場上公にすることはできませんが、私はいつでもあなたの味方です。それだけは覚えておいてください」

「宮田さん」

「あなたが柊弥の婚約者だから、という理由ではないですよ?ただの高校生のあなたであっても、私にとっては大事な妹です。柊弥があなたを選ばなくても私はどこかで見守っていたでしょう」

「わたしにとっても同じです。宮田さんはたったひとりの大切なお兄さんです。あの……」

空音が和義の顔を伺うように見上げてくる。

「どうかしましたか?」

「ふたりのときはお兄さん、って呼んでもいいですか?」

「もちろん、どうぞ」

空音は思わず微笑んだ。

「父のことは……、良い感情は持っていませんが、私に妹を授けてくださったことだけは感謝しています。今後できる限りのことはしてさしあげるつもりです。ですから、空音さんが何も心配される必要はありません」

それは暗に、もう関わるな、と告げるかのような言葉で、空音はしばらくして、はい、としっかりこたえた。