【蒼き月の調べ】波瀾編 第3章 - 6/7

病院に着き、ざわざわとした外来を通りすぎて、柊弥に連れられて面会室へと向かった。

すると中から聞き慣れた声がする。

「あなたは本当にいつでも勝手な人間だな」

―――宮田さん。

空音に対する声とはまったく違うが、この声色は確かに和義のものだった。

思わず横に開く扉を少しだけ開く。

静まり返った部屋に響く低い声。スーツを着た男の後姿と、その向かいには窓の外を眺めている車いすの男の姿が見えた。

「お前はさぞ俺を恨んでいることだろうなぁ、と思ってはいたが」

「あんたを恨む暇があったらもっと有意義なことに使っている」

淡々と告げる彼の抑揚のない言葉。

空音はなぜ和義がこの場所にいるのか、なぜ父と思われる人物と会話しているのか、思いがけない光景に、これまでの緊張がいっきに消えていくような気持になった。

「はは……お前は幼い頃から頭がよかったからな。俺に似なくてよかったな」

「そのようだ」

―――え?

「俺は最低の人間だからな。今さら悔いても償いなどできようはずもない。こんな死ぬ間際になっていろんなことを思う」

「そう思うならもう二度と関わらないのが償いだろう」

「お前のいうとおりだ。俺だってそのつもりだった。だが静子が余計なことをしたんだ。空音が金持ちの男と婚約したってな。あいつを悪くいいたくはないが、変な奴らにいろいろ吹き込まれている。気をつけろ」

「あんたに言われなくてもそうしている」

”私の父も暴力をふるう人でした”

再婚だった父には、前妻のもとに子どもがいたという。

空音の中でこれまでのいろんなことが繋がっていくような気がした。

「空音もお前のような優秀な兄に守られているなら安心だ―――空音は来ないか・・・」

「―――もう到着している。本当は会わせたくはなかったが」

その言葉とともに、和義がゆっくりと扉を振り返った。ばっちりと目が合い、空音はなぜか不思議な気持ちで扉をそのまま大きく開いた。

和義を見て、そして後ろに立っていた柊弥を振り返る。柊弥が静かに頷くのを見て、空音は足を踏み入れる。

和義は一定の距離を保ったまま、空音を庇うように迎え入れた。

ひとつひとつの動きは優しいが、空音に声をかけることはなく、”父親”を冷ややかに見つめた。

「これで、思い残すことはもうないだろう?」

「そう、だな」

空音も俯き加減に”父親”を見た。

やせ細り寝間着からはみ出す腕や顔の骨が浮き上がっている。今にも折れそうな細い腕には点滴の針がしっかりと張り付けられていた。

もはや空音の記憶に残る父はいなかった。

たとえ目の前にいるのが血のつながりのある父親であったとしても、空音にはもう何年も父親は存在していなかった。

隣に和義がいるからか、空音は妙に落ち着いていた。

たぶん、父親のことよりもなによりも彼のことの方が驚きが大きかった。

だから、冷静に、”父親”に向き合える気がした。

「杉山、空音です」

しっかりと声を出したつもりだったが、震えている。和義の大きなてのひらが空音の背を支えた。空音はちらりと和義を見上げると、―――大丈夫、そう告げられた気がしてもう一度父親を見据えた。

「今は、わたしは生まれてきて幸せです。ありがとう、ございました」

空音は頭を下げた。

この人がいなければ自分はこの世に生まれることはなかった。苦しく悲しい過去もなかったかもしれないが、峰子や柊弥、和義や甲斐に出会うこともなかった。

恐怖や憎しみ、怒り、悲しみ、苦しみ、そしてその中にわずかにあった小さな喜び、そういった感情はすでに過去のものだ。

だからこそ、自分の中で今告げられるのはこれだけだ。

すぐに背を向けると、柊弥の顔が視界に入る。どこか安堵してそのまま柊弥のもとに歩む。部屋を出ようとして呼び止められる。

「わるかった」

低く、震える声がそれだけ告げた。

空音がもう一度振り返ると、父は窓の外を眺め、表情は見えなかった。

「お大事に、してください」

空音は最後にそう告げると、そのまま柊弥と共に部屋を出た。少し歩いたところで立ち止まる。そして後ろから歩いてくる和義をじっと待つ。

聞かなければならないことがある。

 

「宮田さんは、―――わたしのお兄さんですか?」