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夏休みに入っても、空音はほとんどの時間を学校で過ごす。学園祭の練習と、受験のための補習授業に出席していたからだ。帰宅してからも甲斐のレッスンがほぼ毎日のようにあった。
けれど、この忙しさは空音にとって救いだった。夏の暑さもあって一日それだけのスケジュールをこなせば夜にはぐっすりと眠れ、余計なことを考えずにすんだ。
「すごい集中力だね」
思わず甲斐も感心するほどだった。
「無理してない?」
「今は、いろいろ頑張りたい気分なんです」
「まあ、そういうときもあるか。あ、そうだ。学園祭だけど、うちの家族も全員観に行くって言ってたよ」
「そうなんですか?」
甲斐の家族の中には海外を拠点に活動している兄もいたはずだ。日本に帰国しているのだろうか。
「楽しみにしてるみたいだけど」
「学園祭を?」
「空音ちゃんの演奏を、だよ」
「わたしよりも上手な人、いますよ」
「技巧じゃないんだよ、あの人たちが観たいのはね」
空音は首をかしげる。甲斐はそれ以上何も言わず笑っていた。
夕食は甲斐が一緒の時もあれば峰子と二人だけの時もあった。
柊弥は相変わらず忙しくしており、夏休みに入ってからほとんど会っていない。時折やってきては新居の話をしたりするが、泊まっていくことはなかった。
声が聴きたい、と思ってはみるものの、やはりなかなか携帯電話を使うことはできなかった。機械音痴なのもあるが、仕事中だと思うと使うことはためらわれた。
多忙な夏休みの中、盆の週は完全に休日だ。
空音が柊弥に呼び出されたのはその休みに入って二日目のことだった。
「父親に会いにいこう」
そう言われたのだ。
戸惑う空音に柊弥は何度も大丈夫だから、と抱きしめた。
「もし、どうしてもいやならば無理はしなくてもいい。ただ、空音にとってけじめをつけた方がいいのではないかと思った」
「でも、何を話せばいいのかわかりません」
「話す必要はない」
「空音さん」
その場にいた峰子の優しい声が空音の心に響く。
「覚えておいてね。あなたの帰る場所はこの家です」
空音は静かに頷いた。
ずっと迷っていた。本当に会ってもいいのか。母と自分を傷つけた父親に。
柊弥とともに車に揺られながら、ほとんど思い出した過去の記憶をたどる。
「お父さん、やめて!」
「うるさい!ガキは黙ってろ!!」
衝撃が体中に広がって小さな身体が宙に浮かんで畳にたたきつけられる。
やめて。やめて。やめて。
何度その言葉を叫んだだろう。
空音の記憶には怒鳴り声をあげる父の姿が多い。
けれど、たったひとりの父でもある。
暴力をふるう怖い父だけでなかったことも思い出した。
誕生日にプレゼントをくれたことも、確かにあった。
柊弥が空音の手を握っていてくれる。
―――もう無力な子どもではありませんから
どこかで、和義の言葉が聞こえた気がした。空音ももう無力ではないはずだ。