3
その日はみなみたちと一緒に下校するために数人で校門を出た。一緒に帰ろうと誘われたからだ。
常には車で送迎してもらっているものの、クラスメートから誘われたのだと朝伝えると、あっさりと了承してもらえた。
とはいえ、春子はすぐ後ろについてきている。敦志もまた姿こそ見せないが、どこかにいるに違いなかった。ボディガードといっても私服姿で人通りの多い場所を歩いていれば、すっかり溶け込んでしまう姿のため、誰もが警護しているなどとは気づかない。
唐突に前を歩いていたみなみが振り返る。
「空音って選曲、何にしたの?ほら、今日までだったでしょう?かぶったら嫌だなぁとは思ってたんだけど」
「わたしは祖父が作曲したものにしようかと」
「作曲?おじいさまって作曲家とか?なんだ、じゃあ本当に運だけじゃなかったんだ。あたしはラヴェル」
みなみはそれ以上言わなかったが、どうやらかぶる心配はなくなったようだ。
「ねえ、どこか寄ってく?」
「帰ってからレッスンがあるから、みなみさんは?」
「あたしもあるわよぉ。でも時間が決まってるわけじゃないし。うちは母は指導者だからね」
「お母さまが」
「そう。だから毎日喧嘩ばっかよ。空音はやっぱりプロの指導者とか?」
「どう、なのかな」
甲斐の名前を出すのはためらわれた。鳳仙家の名前は音楽業界ではあまりにも有名で、しかも甲斐はときどき学園にも顔を出してる。
「時間は厳しいのね」
「本格的に受験を考え始めたのが遅かったから、追いつくのがたいへんで」
「ま、そうよねぇ」
そんな会話をしているうちに駅が見えてきた。このまま電車に乗ってもよいのか迷って後ろを振り返ろうとしたとき、名前を呼ばれた。
「はい」
礼儀正しく答えてしまったその瞬間に写真を撮られ、思わず硬直した。
報道関係者だ。
「こちらへ」
空音が身構えると同時に春子に腕を掴まれる。そして背中に腕を回され、隠されるようにしながら近くに止めてあった車へ移動を促される。
「あの、ごめんなさい」
クラスメートたちにはそれだけ告げるのが精いっぱいだった。
空音を乗せ、すぐに車を発車させた敦志が何度もバックミラーで後ろを確認していた。
複雑な気持ちだった。
柊弥の婚約者という立場になっただけで、こんな風に有名人のように付け回される。
―――別れてくれよ
はっきりとそういった尚弥の言葉が浮かんだ。
彼は言った。ただでさえ忙しい柊弥にこれ以上の面倒を抱えてほしくない、と。
海棠家に戻り、自分の部屋へ入ると、尚弥から渡された静子の連絡先の書かれた紙を握りしめた。
「空音さま、宮田さまがお見えです」
部屋の外から声がきこえ、着替える間もなく、居間へ向かう。
「またカメラマンがうろついていたようですね。大丈夫ですか?」
「はい」
和義の声を聴くとどこかほっとする。
「空音さん、尚弥さんにお会いしてきましたよ」
え、と顔を上げると、和義は変わらずほほ笑んでいる。
「彼はあなたに、柊弥と別れてほしいとおっしゃったようですね。ですが、彼は何も事情をご存知ありませんので、どうか許してさしあげてください」
許すも何も、尚弥は柊弥を心配していることだけは伝わってきた。
「それから、彼があなたにおっしゃったことは忘れてください。と言っても忘れられるわけではないと思いますので、これだけ伝えておきましょうか。―――決して自ら村上静子に連絡してはいけませんよ。今後おひとりで接触するのはおやめください」
最後の言葉が和義にしては珍しく鋭い声色だったので、空音はどきりとした。
「連絡先の書かれた紙は私が預かっておきます」
何もかも、彼は知っている。
「―――それとも、お父さまにお会いになりたいですか?」
「わたしが父親だという人に会えば、柊弥さんに迷惑がかかりますか?」
「尚弥さんがそうおっしゃいましたか?柊弥はなんと?」
「会いたければ一緒に行くと、言ってくれました」
「そうですか」
「あの、宮田さんと柊弥さんはわたしの家族のことは全部知っているんですか?」
「ええ、空音さんはご不快にお思いでしょうが、調べさせてもらいました。今後いかなる問題が起きようとも対処していけるように」
「じゃあ、母やわたしが父から暴力をふるわれていたことも?」
「ご両親の離婚の理由はそれでしたね」
やはり、彼はほとんどのことを知っているのだ。
けれども、その後の母との短い時間のことは、誰も知るはずはない。
空音は少しだけ俯いた。
なぜ、ためらいもなく、和義に打ち明けようと思ったのかはわからない。
「わたし、母に一緒に死のうと言われたんです」
柊弥に話せなかったことを、空音はあっさりと口にした。
「わたしが弾いたピアノを褒めてくれたのに、その次の瞬間には、わたしが生まれてこなければよかったのに、って……わたしが幸せになるのは許さない、って……」
―――そうだ思い出した。
なぜ、結婚しないと決めていたのか。
母に一緒に死のうと言われたとき、空音はいやだ、死にたくない、と言ってしまった。
そのとき、母に言われたのだ。
幸せになるのは絶対に許さない。
そして、母は自ら命を絶った。
「わたしのせいです。わたしのせいで母は死んだんです。離婚したのだってそう。わたしがいたから、母は結婚して苦しむことになってしまった」
空音は和義の腕を掴みながら、涙を流していた。
「空音さん、落ち着いてください―――それは違います」
和義があまりにもきっぱりと否定する。それが彼の優しさであることを空音は知っている。
「わたしは、柊弥さんとは結婚できません」
和義は尚も落ち着いて空音の細い腕をしっかりと支えた。
「それはご自身のお母さまに対する罪悪感からですか?」
その声があまりにも静かで、取り乱す空音に対してもまったく動揺を見せない。その姿に空音も冷静さを取り戻していく。
「わたしが、幸せになることを母は許さないと思います」
「そうでしょうか。お母さまは空音さんの幸福を誰よりも望んでいらっしゃると思いますよ」
「そんなこと、どうしてわかるんですか。現に、母は……」
「あなたが幸せになることを許さない、とお母さまがおっしゃったのであれば、それはあなたの身体に流れるお父さまの存在に、だと思いますよ―――お母さまは空音さんの音楽の才能を喜んでくださったのでしょう?」
「どうしてわかるんですか?」
「どうしてでしょうか。私の父も暴力をふるう人でした。追い詰められた母に自分の存在を否定されたことも多々あります。子どもというのは幸か不幸か両方の親の血を引き継いでいます。両親が不仲になれば子どもの気持ちはとても複雑になるものです。ですから、私もずっと両親の不仲は自分のせいだと思っていました。けれど、大人になり、DVやその被害者の心理なども多少は勉強しましたから、今では母を哀れに思うだけです」
「―――お父さまのことは?」
「殺してやりたいほど憎んでいたこともあります。今となっては、誰にも迷惑をかけることなく、生きていればそれでいいと思います」
その和義の言葉はわかるような気がした。
「ただ、もし再び自分の大切な人が傷つけられるようなことがあれば、父といえども許しはしません。今の私は無力な子どもではありませんからね」
「わたしも、別に会いたいわけではないんです。父と言われても実感がありません。宮田さんがおっしゃるように、どこかで生きていればそれでいいと思っています」
「けれど、会わないまま、もしもお父さまが亡くなれば後悔するかもしれない、そう思われるのですよね」
「はい」
「ではそのように柊弥に伝えておきましょう」
「宮田さんはこのままわたしが柊弥さんと結婚することになってもいいと思いますか?」
「もちろんですよ。―――空音さんの人生は空音さんのものです。あなたのお母さまのものでもお父さまのものでもない。ましてや柊弥のものでもない。だから最終的に決めるのは空音さんです。ですが、これだけは言わせてください。空音さんはどんな決断をしようとも、その中に幸せを見つけられる人です。そしてその幸せを壊す権利は誰にもない」