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『結婚なんかしなきゃよかった!!あんたなんか産まなきゃよかった!!』
ハッと、我に返る。
「どうかした?」
突然音がやんで驚いた空音の顔を不思議そうに覗き込んでいる甲斐を見て、こちらが現実なのだと少しほっとする。
―――今のは、なに。
急に鼓動が早まった。軽く胸をおさるともう一度甲斐を振り返る。
「甲斐さん、わたしいま、弾いてましたよね?」
「うん。今の今までね。急に止まったから驚いた」
「ごめんなさい」
「今日はもう終わろうか。学校でもみっちりやってるんだから、疲れているんじゃない?」
「大丈夫です……」
とは答えるものの、胸はまだ高鳴っている。
確かに居間、空音はオルガンを弾いていたはずだ。にもかかわらず目の前が真っ白になって流れてきた映像は、ぼんやりとした母親の顔だった。
「ああ、そういえば選ばれたんだってね、ピアノソロ」
「はい」
「空音ちゃん的には微妙なところかな」
空音の心をピタリと言い当ててしまうところが、さすがつきっきりで日々レッスンしてくれているだけのことはある。
「調理科でもそうだったと思うけど、みんな自分の目的のために真剣にやってる。ただ、なんとなく大学受験しよう、っていう生徒はあの学園にはあまりいないからね。特に音楽科でピアノやってる子は、本当に幼い頃からピアノ一筋で練習してきてるだろう?だから、気が引けてるのかな」
「……そうですね。選ばれたことは素直に嬉しいとは思うんですけれど、本当にピアニストになりたい人が選ばれるべきなんじゃないかと思ったら、どうしていいかわからなくなってしまって」
「ああ、でも結局のところ、音楽祭はさ、学校側がこういう才能をもっている生徒がいる、っていうのを各業界に伝えるものだからね。本当にピアニストを目指している子はコンクールでしっかり結果を残すから、そのへんは気にしなくていいんじゃないかな」
「そうでしょうか」
「確かに経験を積めば上手にはなるよ。どんなに下手でもそれなりに練習すれば必ず上達はする。難易度の高い技巧で競いあったりする人たちもいるからね。でもね、生まれ持った感性、時に才能と呼ばれるものは誰にでも備わっているわけじゃない、っていうだろう?」
「……」
「俺は、空音ちゃんは音楽なら何をやっても人を惹きつける何かをもっていると思う。けれど、どんなに才能があっても、その才能を生かせないんじゃただの人だよ。せっかく与えられたこのチャンスを生かせるかどうかは空音ちゃん次第だよ。誰にでも与えられるわけじゃない。空音ちゃんもいつまで与えてもらえるかわからない」
鋭い視線が突き刺すように向けられ、空音も思わず甲斐を見つめ返した。普段、世間話をしているときとは全く違う厳しい瞳。
今、空音は十分すぎるほどの恵みを与えてもらっている。それは空音が音楽に向き合うことを決めたからだ。熱心に指導してくれている甲斐も、空音がやる気を失えばあっさりと見放すだろう。
「もう一回、最初から弾いてもいいですか?」
「―――いいよ」
甲斐は笑う。
この笑顔を失えば、空音は柊弥も失うかもしれない。ふと、そんな可能性が頭をよぎった。
翌朝、気分は憂鬱だった。
浮かない表情のまま、送迎の車に乗り込むと、春子が様子伺いの声をかけてくれた。少しずつ会話をしてくれるようになったこと、気遣いをしてもらえることは嬉しかったが、こんな気分でもなければもっとよかったのに、と思う。
「春子さんは学校に行きたくないと思ったことあります?」
「もちろん、何度もありますよ」
「本当ですか?どういうときに?」
春子がすんなり答えてくれたので、空音は思わず身体を乗り出すようにして問いかけた。
「もうあまり覚えていないのですが、なんとなくの時もありましたし、クラスメートとトラブルがあったりすると特に。空音さまもクラスメートと何かございましたか?」
「……はい」
ここで嘘をついても仕方ないので、素直に頷く。
「でも、休んだところで何も解決しませんよね」
「そうですね」
「もう、戻ることはできないから」
自分に言い聞かせるように、強く心に唱えながら空音は呟いた。