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大事をとって一日休んだ翌朝、音楽科の教室に入ると、一瞬だけざわつき、いくつかの視線が空音に向けられた。
新年度が始まり、初日に紹介されて以来のことで少し驚きながらも席に着くと、ひとりの影が空音の真正面に立った。
「あなた、一体なんなの」
その主から強い声が降ってくる。空音が顔をあげると、見下ろす視線は厳しく冷たいものだった。
基本的にクラスメートと同じ時間を過ごすことは少ない。共通科目や必修科目は2年次までに終わっているので、3年次は選択授業を中心として進路に必要な科目を学ぶことになるからだ。
音楽科でいえば、必然的に個人レッスンや、自習が増える。
そのため、空音にはまだ親しいクラスメートはひとりもいない。空音と同じように普通科から転科してきた生徒と多少会話を交わした程度だ。
―――確か正木さん。
クラスメートの名前を思い出していると、高い声が空音に向けられた。
「いきなり入ってきたあなたが、どうして選ばれるわけ?」
空音はぽかんとして彼女を見た。
なぜ彼女はこんなにも怒っているのだろうか。
教室はしんと静まりかえっている。誰もがこの状況を見守っている。
「こっちはね、物心つく前から英才教育受けて必死でやってんのよ。ちんたら趣味でピアノやってたような人がいていい場所じゃないのよ。海棠家だかなんだか知らないけど、お金の力でなんでもできると思わないで!」
あまりの迫力に、空音は何も言えず、ただ息を飲んだ。
「正木さん、それは言い過ぎだと思うけど。この学園はそれなりに著名人や有名な人の子どもが通っているけれど、公平に実力を判断されるからこそ、学校の評価は高いってあなたも知っているでしょう?」
気づけば、空音の横に立つ人物がいた。
「このクラスにいる人たちはみんなそれぞれ必死に練習してる。最終的には才能と実力で決まるってことくらい正木さんだってわかってるんじゃないの。3年次で転科してこれるってことはそれなりの実力の持ち主ってことでしょう?」
正木朋美はその声の人物を思いっきり睨みつけると、何も言わず勢いよく教室を出ていった。何人かがその後姿を視線で追うが、誰も追いかける者はいなかった。
「あの……?」
完全に展開についていけていない空音は助けを求めるかのように、となりに立つ人物を見上げた。
「ごめんね。彼女、自分が選ばれると信じて疑いもしていなかったんじゃないかしら」
「選ばれる?」
「ええ。学園祭のリサイタル」
「リサイタル?」
「あれ、知らないの?3人しか選ばれないピアノソロ、あたしと野口君とあなたが選ばれたのよ」
「え?」
まったく予想していなかった事に驚くというよりも、一体何がどうなっているのかわからなかった。
確かに、ゴールデンウィーク明けの中間試験では、音楽科の教師たちの前で、ピアノ演奏はしたが、空音は音大のオルガン専攻科を受験するためにこのクラスに編入してきたのだ。
「あの、何かの間違いではないんですか?」
「掲示板にでかでかと貼ってあったけど」
空音はその場所まで連れていってもらうと、そこには本当に自分の名前が連なっていた。
「菊花、みなみさん?」
「そう、よろしくね」
一番上に書かれた名前を見て、空音が振り返ると、彼女は笑顔で応じた。よく見ればうっすらと化粧を施し、きりっとと描かれた眉毛が印象的な少女だ。
「3年生にもなると、将来のこともあるし、こういう世界ってクラスメートはみんなライバルって感じだからピリピリしちゃうのよね。だからあまり気にしないで」
どこか釈然としないまま、放課後をむかえ、空音は職員室へと足を運んだ。
リサイタルのピアノソロの話を断りたいことを申し出ると、担任教師は淡々と空音に告げる。
「ピアノ講師の先生方の強いご推薦だからな。音楽科にうつってきた時点でそういう可能性があることくらいわかっていたんじゃないのか。そもそも喜ばしいことであって悩ましい顔をすべきじゃないだろう」
こう言われてしまえば空音には返す言葉が見つからなかった。
翌日の個人レッスンで担当のピアノ講師に聞いてみるとやはり同じようなことを言われる。
彼女は空音が入学当初から空音のピアノを絶賛していて、音楽科に誘ってくれていた先生だ。音楽の授業でもお世話になり、行事でピアノ伴奏をする際はいつもレッスンを見てくれていた。
「ピアノの才能があるんだから、いい経験になると思うの。あなたはコンクールにも出たことないでしょう?残念ながらここにはオルガンを専門に教えられる先生もいないし、ピアノでこういう舞台に出ておくのは将来のためにもいい勉強になるわ」
はあ……。
帰りの車の中で思わずついてしまったため息があまりにも大きかったので、すぐに春子が反応する。
「何かございましたか?」
「ちょっといろいろあったので」
―――疲れた。
囁くほど小さく呟いた声が前の座席にいたふたりに聞こえたかどうかはわからない。
屋敷に戻り、部屋に入ると、空音は一番にオルゴールの螺子をまく。緩やかに流れる優しい旋律に耳を傾けながらそのまま突っ伏した。
最初にピアノを弾いたのはいつだっただろう―――家にはオルガンしかなかった。
海棠家に持ち込んでいる古いリードオルガンというものだ。空音は家では毎日そのオルガンを弾いていた。
「ピアノを買ってあげたいんだけどな」
母はそう言っていたけれど、空音はオルガンで十分だった。それでもいつだったか、機会があってピアノを弾かせてもらったことがあった。母はとても喜んでくれた。
あの頃の小さな幸せは長くは続かなかったけれど。