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頭上には雲一つない蒼天が広がっている。すでに夏を思わせる日差しが強く、和義は病院を出ると思わず目を細めた。
自ら申し出て休暇をもらったのはひどく久しぶりな気がした。
休みをもらっても特にすることはない。ゆえにもっぱら古本屋巡りと、読書。おそらく自分は何かしらの役目を与えられ、そのことに没頭している方が向いているのだろう。
そしてそういう自分を柊弥はよくわかっている。
柊弥のもとで働くようになって後悔したことは一度もない。
彼のそばで仕事をするのは面白い。もともとライバルで気が合う友人だったからだ。柊弥の秘書といえど、その仕事は多岐にわたる。海棠家のことにも深くかかわっているのが現状だ。
これからも同じように生きていくのだろう、と疑うことはなかった。
―――彼女が現れるまでは。
すべての過去を捨て去ったつもりだったが、もう一度あの男に会う日がくるとは思わなかった。
家族を不幸のどん底に陥れた人物に。
「あと一件行っておかねばなりませんね」
ぽつり、こぼしながら駅へと急いだ。
社内の応接室に通され、馴染みの顔が現れる。
「やあ、和義がひとりで来るなんて珍しいね」
「春樹も相変わらず元気そうですね」
「まあ、なんとかやってるよ。そちらさんにも迷惑かけない程度には」
笑顔で言いながら、ソファに座る。彼―――藤原春樹は学生時代に知り合った数少ない友人のひとりだ。今は会社経営をしている有能な人物である。
「柊弥は相変わらず忙しくしてるんだろうねぇ。たまにパーティで会うけど。―――そういえば婚約したんだっけ?相手は女子高生とか」
興味津々、という風に言われ、和義は苦笑する。
「信じられないくらい穏やかになりましたよ」
「へー、あの柊弥がねぇ。女には興味ないかと思ってた。今度会ったらからかってみようかな」
「冗談が通じない相手ですから、何かあっても知りませんよ」
「ハハハ、確かにね。で、今日はどうしたの。和義だってそんなに暇じゃないんでしょ。しかも仕事って感じでもなさそうだし」
「尚弥と面会したくてね。申し訳ないけどプライベートで。勤務時間外だとなかなかつかまらないんですよ、彼」
まさかこんなところで尚弥の名前が出てくるとは思っていなかったのか、春樹は少し驚いたように双眸を丸くする。
「尚弥、ね。最近はおとなしくしてると思うけど、なにかやらかした?」
「そういうことじゃないんですよ。真面目に頑張ってくれているのならなにより」
和義の普段とは違う含みのある言葉に春樹はなにかしら気づいたようで、それ以上の詮索はしなかった。
「じゃ、呼んでくるよ。なんなら早退扱いにするから連れていってもかまわないよ」
「それほど時間はかけませんよ」
「了解」
この会社の若き社長は応接室を出ていく。
柊弥が彼の人間性を信頼して、尚弥を預けた。春樹はもともと尚弥の家庭教師だった。荒れていた尚弥を立ち直らせたのは春樹の力だといっても過言ではない。
尚弥は海棠家でも常に頭を抱える人物のひとりだった。
優秀な兄をもつがゆえに、尚弥の葛藤も大きかったのだろうし、幼少期から両親の愛情とは無縁に育ったのも理由のひとつかもしれない。
暴力や犯罪に近い行為、いろんな事件を起こしては、柊弥や和義が問題解決に奔走した。まるでかつての自分のを見ているようで、腹立ちを覚えながらも放っておけなかった。
そんなことを思い出していると目的の人物がきっちりとスーツを着こなした姿で現れる。
和義はくすり、と笑った。
人は変われるのだ。
「カズさんが俺に会いたいなんて珍しいな」
「そうですか?」
「うん、最近迷惑はかけてないと思うんだけどなー」
まるで変わらない親しげな口調に微笑みながらも、これとそれはまた別の話だ、と心を切り替える。
「身に覚えはありませんか」
「ないって」
「空音さんに会いに来られたでしょう?」
尚弥は空音、という名前に反応すると、頭をぽりぽりとかきながら気まずそうな表情をして見せる。
「兄貴、なんか言ってた?」
「特には」
「なに、あいつがしゃべったわけじゃないの?」
「ええ。たまたま私が海棠家を訪れた時に使用人から聞いただけです。その使用人も言わないように口止めされていたようですが、空音さんの様子がおかしかったので、強引に聞き出したんですよ。すでに柊弥も知っているとは思いますが」
「で、カズさんは何しにきたの」
「何を話されたんです?」
尚弥は一瞬口を噤んだが、しばらくの沈黙の後、観念したように口を開く。
「兄貴と別れてくれって言っただけだよ」
―――なるほど。
空音の様子がおかしかったのはこれか。
話してほしいと告げても言わなかった。柊弥にも尚弥と会ったことは言わないでほしいと強く懇願された。
「その理由を聞いても?」
「だって信じられないだろ?普通の女子高生が身内を失って玉の輿?まさにシンデレラじゃん。裏がないはずがないだろ。現にあいつの叔母だって女が俺に電話してきた。わざわざ俺にだぜ?だいたいカズさんもあのばーさんもなんで疑いもなく、あんな胡散臭い女を認めてんのか、その方が謎だよ」
尚弥は空音に語ったことをすべて話す。こういうところが素直なのは相変わらずだが、それを聞いて和義は大きくため息をついた。
「いろいろ誤解もあるようですが。だいたい柊弥の方が空音さんに執着しているんですから、また余計なことをしてくれたものだ、というのが正直な気持ちです」
「余計?そうかなぁ。カズさんにとってはチャンスなんじゃないの?」
「チャンス?」
怪訝に思っていると、尚弥はにやりと笑う。
「カズさんだってあいつのこと気に入ってるんだろ?女子高生にしちゃ大人びてるし、美人だよな」
「どうしてそう思うんです?」
どこか冷めた気持ちで尚弥を見る。
「だって珍しいじゃん。カズさんて他人にあまり興味を示さないし、兄貴は冷酷無慈悲なんてよく言われるけど、本当は兄貴より、カズさんのほうが当てはまる言葉だろ?特に女には冷たいじゃん」
「空音さんは柊弥の婚約者ですから、怖がらせるわけにはいかないでしょう」
「本当にそれだけ?」
尚弥は笑っているが、鋭い視線を向けてくる。
その視線を真正面から受け止めながら、和義もじっと彼を見据える。
尚弥の指摘は一概に間違っているとはいえない。けれども今、真実を告げるわけにもいかない。
和義には和義の事情がある。その事情は確かに尚弥には無関係とも言えないが、今教えるべきだとも思わない。
「それだけですよ」
和義の言葉が嘘だということは尚弥も気づいているだろう。けれどもそれ以上は何も言ってこなかった。
「俺には関係ないことだよな。でも、俺だって一応海棠家の人間だから心配してんだよ」
「それはわかっています。村上静子のことはこちらでも調べています。なぜ尚弥さんが海棠家の人間だと知られたのかもいずれわかるでしょう」
「……わかったよ。俺は余計なことをしないほうがいいんだな」
「物分かりがよくなりましたね」
「俺ももう社会人ですからね」
お手上げ、という風に尚弥も丁寧に返す。
「また何かありましたらすぐに私に連絡してください」
「兄貴じゃなくてカズさんに?」
「もちろん、柊弥でもけっこうですよ」
「はいはい」