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「大丈夫ですか?ご気分が悪いようでしたらどこかで休憩いたしましょう」
「でも、柊弥さんが待ってます」
「体調が優れないとお伝えしますから」
春子からいつになく優しい言葉をかけられ、空音は頷いた。後部座席に横になっていると、低い声が耳に届く。敦志の声だということに気づくのにあまり時間はかからなかった。空音の状態を柊弥に報告しているのだろう。
吐き気はあるが、吐きそうにはならないそんな気分の悪さを抱えながら、耳を澄ましていると、春子が飲み物をもってきてくれる。軽く身体を起こして水分を口に含むと少しだけ気持ち悪さが和らぐような気がした。
「ありがとうございます」
「他になにかほしいものはございますか?」
「大丈夫です」
窓からコンビニが見え、学校近くのコンビニにいるのだろう、ということがわかる。これから少し休憩して柊弥のもとへ向かうのだろう。
そう思うと今度は胸がざわざわとしてくる。
尚弥に言われた言葉がまた脳裏をよぎる。
―――別れてもらいたい。
彼は確かにそう言った。
父や父方の親族と関わる日が来るとは空音自身、夢にも思っていなかった。
離婚後、慰謝料も養育費も受け取らないかわりに、一切の縁を切る、ということで合意していたことも後で聞いたことだ。
その父が余命宣告を受け、実の娘になにかしらの思いを感じてくれたのだろうか。
いろんなことを考えているうちにまた気分が悪くなる。
ぐるぐるといろんなことが頭をかけめぐり、空音自身どうしていいのか、またどうするのがいいのかわからない。
「大丈夫ですか?このまま病院に向かったほうがよいとのことなので、車を動かしてもよろしいですか?」
「あの、海棠家のお屋敷の方へ帰りたいです」
「ですが」
「お願いします」
柊弥の職場である都心までは少し距離がある。海棠家の屋敷ならばここから近い。病院に行くくらいならば早く戻って部屋で休みたい。
それが正直な気持ちだった。
「では少々お待ちください」
春子はそういうと、空音の言葉をそのまま柊弥に告げ確認をとった。そして空音の望むとおりにしてくれた。
屋敷に着いて、空音が自ら車を降りようとすると、敦志に抱きかかえられた。警護の仕事がどこまでのものかはわからないが、ここまでしてもらってよいのだろうか。
「柊弥さまが、なるべく早めにお戻りになるとのことです」
空音に話しかける敦志の声をはっきりと聴き、なぜだか妙に安心した。これまでどんなに話しかけてもほとんど言葉で応じてくれなかった彼が、初めて話しかけてくれた。
空音の寝室となっている洋室まで連れていかれ、ベッドにおろされた。使用人の女性ひとりを残し、春子と敦志は頭を下げると早々に部屋を出ていく。
「お着替えをなさいますか?」
「はい」
着替えを差し出され、空音はうけとった。
「大丈夫ですか?お食事は休まれた後にご用意いたしますね」
「ありがとうございます」
「何かございましたらお呼びくださいませ」
彼女は水の入った瓶とグラスを枕元に用意すると静かに出ていった。
はあ、と小さくため息をつき衣服を着替える。制服をハンガーにかけると、そのまま倒れこむようにして横になった。
宿題があるのに、甲斐とのレッスンもあるのに、とぼんやり考えながらも、猛烈な睡魔に襲われ、全身が金縛りにでもあったかのように重い。
とにかく眠くて眠くて、そのまま深い眠りに陥ってしまった。
「ご気分はいかがですか」
目が覚めて、朝だと思ったら、まだ帰宅してから数時間しか経っていなかった。
「少し楽になりました」
身体を起こすと、先ほどの気分の悪さが嘘のように消えていた。用意してもらった水を一気に飲み干して、お礼を言った。
「ご夕食はいかがいたしましょう?すぐに用意いたしますか?」
「はい」
「ではご用意いたしますね。胃に優しいものをお持ちしますので」
「はい。ありがとうございます」
「先ほど、柊弥さまがお戻りになられたのですが、こちらにお通ししてもよろしいですか?」
「はい」
夕食は部屋まで運んでもらい、同時に柊弥が入室してきた。
いつもと変わらない態度にホッとしながらも、どこか気まずい気持ちを隠せない空音は、なんとかいつもどおりの表情を作る。
「随分と顔色はよくなったようだ」
「はい。少し寝たら……」
そういったところで、抱き寄せられる。ふわり、と柊弥の香りが空音を包む。
「空音は何かあるとすぐに体調を崩すからな」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない。ちゃんと身体が知らせてくれるのだからむしろありがたい。あまり側にいられなくてすまない」
柊弥は忙しい。
出張に加え、夜遅く帰宅することも度々、帰ってきても数時間で出かける日もある。空音とのんびり過ごす日はほとんどなかった。
婚約者といっても、お付き合いしているともいえないような状況だ。
別れる、というのはどういうことになるのだろう、とぼんやり考えた。
「柊弥さんはお仕事だから仕方ありません」
「もう少しわがままを言ってほしいのだが」
「そうしたら柊弥さんが困るでしょう?」
「もっと困らせてほしいものだな」
柊弥の側にいたいと思う。
こうやって抱きしめられれば安心できる。
そんな時間がもう少し増えればうれしいと思う。
けれども、彼は多くの責任を背負っている。
空音には柊弥の仕事の内容がどういったものなのか具体的にはわからないが、困らせるよりは負担にならないようにしたいと思う。
「空音は、村上静子という女性を知っていたのか?」
柊弥の静かな声が届いて、空音は埋めていた顔をあげる。間近に柊弥の顔があり、すぐにまた下を向く。そして首を横に振った。
「実の父親が病気だそうだな」
「そうみたいです」
「空音は会ってみたいのか?」
「……わかりません」
会いたくない、と即答できれば、と思った。
けれども会いたい、というわけでもない。
空音の記憶は薄れてはいるが、体中で父親という存在を拒否している。そんな気がした。
「もし、会いたいというのなら、私も一緒に行くから」
ふと、柊弥は一体どこまで知っているのだろう、と気になった。
両親が離婚していることは知っているだろう。身内はもういない、ということも峰子から聞いているはずだ。だからこそ、空音は峰子に引き取られたのだから。
両親の離婚理由が父親の暴力だったということまで知っているのだろうか。
「静子という女性は他に何か言っていたのか?」
「特に……あの人の、離婚後のことを少し聞きました。それだけです」
「そうか」
柊弥は頷くと、空音を開放した。
「いつまでもこうしていたいが、そろそろ食事にしたほうがいいな」
空音のお腹が時折音を鳴らしていたことに気づいていたようで、柊弥は笑っている。
「しゅ、柊弥さんはまたおでかけになるんですか?」
「すまない。だが、空音の食事の間はそばにいるから」
「柊弥さんはもうお食事はお済みなんですか?」
「ああ、移動中にすませてしまった。空音が起きているとわかっていれば、一緒に食べたかったと後悔しているところだ」
空音は頬を赤く染めながら、小さくいただきます、というと用意された夕食に箸をつけた。