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「春子さん、やっぱり柊弥さんに相談したほうがいいですよね」
「はい、そう思いますが」
村上静子という人のことを空音はまったく知らない。父のことですらほとんど記憶にないのだから、その親族のことは、たとえ血のつながりがあると言われても他人でしかない。
それでも、すべての身内を失った空音は、どこかで血のつながりがある人がいるんだ、と思うと不思議な気持ちだった。
その数日後、意外なところで”叔母”に会うことになった。
授業が終わった直後に音楽科の担任に呼び出されたのだ。
「君の叔母さんにあたる方が、今来校されている。自らのものと君の父親の戸籍謄本をお持ちになっているので、身元の確認はできているようだ」
戸籍、というならば、本当に空音の叔母だったのだ。
応接室に向かいながら、空音は緊張してきた。
父親の暴力で逃げるように家を出た―――と聞いている。本当に会ってもいいのだろうか。やはり会う前に柊弥や峰子に相談すべきなのではないのか、頭の中でぐるぐると考えているうちにたどり着いてしまった。
「中でお待ちだから。話が終われば事務局の方にひとこと言っておいてもらえばいいから」
担任はそう告げると空音を置いて去っていく。以前の担任の須山とは違い、あまりにもそっけない口調だ。
空音は一度大きく深呼吸すると、ドアをノックし、ゆっくりと押し開いた。
その目に飛び込んできたのは、ふくよかなゆったりとした女性だ。見た目とは正反対の鋭い眼光が妙に空音の鼓動を高鳴らせる。
「空音、ちゃん?」
親し気に呼びかけられたので、はい、と頷いた。顔を見て何か思い出せるかと思ったが、全く何も思い出せなかった。
「村上静子です。あなたの父親の妹だから、叔母にあたるの。会えてとてもうれしいわ」
にこやかに微笑まれ、空音は頷いた。村上は空音も数年名乗っていたはずだが、村上空音という響きは違和感しかない。あまりに遠い日のことなので、空音はどう反応していいかわからない。そしてなぜ、父親でなく、叔母が空音に会いにきたのだろうか。
「ずっとね、探していたのよ」
「どうして、ですか?」
空音の脳裏には尚弥に言われた言葉が今も残っている。
「だってねえ、可愛い姪っ子のことですもの。どうしているのか、幸せにくらしているのか、ずっと心配していたのよ。兄はけっこう誰にでも親切で人当たりはいいけれど、ちょっと問題のある人だし」
「あの、今日はどうして会いにきてくださったのですか?」
なぜか、いやだ、と思う。あまり長くこの空間にいたくない、と本能的に体が拒否しているようだ。早くこの対面を終わらせたかった。
「ごめんなさいね。あなたを捨てた父親なんて興味ないわよね。でもどうしても伝えておきたいと思って。兄は、今闘病中で、あと何年も生きられないの。それを知って自分の子どもにひとめ会いたいというものだから」
「病気、なんですか?」
ずっと父親などいないと言い聞かせてきたからか、ここにきて初めて父親の現状を明かされたことでずしん、と重たいものを感じる。
「ええ」
「あなたにもきっと思うことはあると思うの。だから強くは言えないのだけれど、もしも会ってくれるというのならぜひ連絡してきてちょうだいね」
物腰はやわらないけれど、何かがひっかかった。空音はますます気分が悪くなってきた。
「あの、すぐにはお返事できません」
「そうよね、わかっているわ。私はただ兄の現状を伝えたかっただけなのよ。あなたにとってはひどい父親かもしれないけれど、私にとっては大切な兄だから」
静子は父の離婚後のことを少しだけ話して学校をあとにした。彼は離婚後再婚したがやはり再び離婚したのだという。ギャンブルなどで借金を抱えていたこともあり、親しい友人も離れていったようだ。
両親の離婚の原因は父親の暴力だった。空音の母とも再婚だったという父は、結婚生活には向かない人物なのかもしれない。その父が今はたったひとり病気と闘っている。
家族のすべてを失った空音の、実の父親もまたこの世を去ろうとしている。
空音は空を仰いだ。
どこからか管楽器の音が風に乗って流れてくる。音楽科の管楽器コースの生徒たちが外で練習しているのだろう。
校門を出れば、春子と敦志が待っている。
今日のことを話すべきか、一瞬立ち止まり、再び足を動かす。
音は途切れることなく空音の耳に届いていた。