3
ゴールデンウィークが終わり、初夏の気配が漂い始めた頃、空音は意外な人物の来訪を告げられた。
彼にとってみれば帰省とでもいうのかもしれないが、空音が海棠家でお世話になって以来初めてのことだ。
峰子も柊弥も不在にしているため、空音に声がかかったのだろうか、と特に深く考えずその人物が待っている居間へと向かった。
「ご無沙汰しております、尚弥さん」
丁寧に挨拶をすると、彼は軽い口調でどーも、と返す。
「今日はどうされたんですか?柊弥さんはお帰りが何時になるかまだわからなくて」
「別に兄貴に用があったわけじゃない。あんたに話があるんだ」
「わたし?」
「まー、座りなよ」
そういうと、近くにいた使用人にも下がるように告げる。
二人だけになった部屋はしんと静まり返る。空音は妙な違和感を覚える。新年のパーティで顔を合わせたときとは印象が違う。
不思議に思いながら、改めてコーヒーにミルクを注いでいる尚弥の顔をまじまじと見つめる。
柊弥と同じように整った面立ちをしているが、雰囲気はあまり似ていない。
「どうやって兄貴を落としたわけ?」
「え」
「兄貴に近づいた本当の理由はなんだ?」
「あの……」
「堅物兄貴を落とすのはどんな女だろうとは思っていたが、そりゃ、若い女子高生なら文句なしってとこか。でも、なーんか腑に落ちないんだよね」
尚弥は目の前のコーヒーを一口含むと、更に言葉をつづけた。
「だいたいさ、あんたと婚約なんかして兄貴にいいことなんてひとつもないわけだよ。身寄りのない少女との純愛とか、イメージはよくなるかもしれないが。兄貴と結婚するってことがどういうことかわかってんの?あのばーさんまで丸め込むとは、あんたたいした女だよ。そもそも目的は何?金?俺はあんたがなにを考えてんのかさっぱりわかんないんだよね」
空音はきょとん、として尚弥を見つめたままだ。
「何か言いたいことはないのか」
「何を、ですか?」
「純情ぶったって無駄だよ。俺は下心のない女とかいるはずないと思ってるからさ。それって演技だろ?そろそろ本性見せてみろよ」
「―――尚弥さんはこの家がお嫌いなんですか?」
「はあ?」
尚弥は素っ頓狂な声をあげた。
空音には尚弥の言いたいことがよくわからず、首をかしげた。一気にしゃべられると理解するのが難しい。
とりあえず、これまで疑問に思っていたことを聞いてみた。
「峰子さんや柊弥さんはもちろん、この家にいらっしゃる方は尚弥さんの帰宅をとてもお待ちしているんです。だからお仕事がお忙しいとは思うんですけど、また帰ってきてくださいね」
にっこり笑って言うと、尚弥は眉間に皺をよせる。
「あのさ、あんた俺の話を全く聞いてないだろ」
「聞いてますよ?」
「なあ」
「はい」
「あんたって兄貴のどこが好きなの?」
唐突に聞かれ、―――この質問はもちろん理解できる。どこが、と問われてもこれ、と答えるにはなかなか難しい。
柊弥のことを思い浮かべ、あれやこれやを思い出すと最終的に好きだという気持ちにたどり着くのであって、一言では語れない。
空音が考え込んでいると、尚弥は言葉を変えた。
「本気で好きってこと?」
「はい、好きです」
空音が迷わず応えると、尚弥はじゃあさ、とこれまで見せなかった真剣な表情になる。
「兄貴と別れてもらいたいんだけど」
空音は尚弥を見返す。
「兄貴の幸せを思うなら、別れてくれよ」
尚弥がもう一度言うその言葉が空音の頭にしっかりと入り込む。どう応えていいかわからず、身体が石のように硬直している。
「何も理由なくこんなことを言ってるわけじゃない。別に俺だってあんたを不幸にしたいわけじゃない。―――あんたの叔母だって人物から俺の勤めている会社に連絡があった」
「叔母……?」
「ああ、確かにそういってた。海棠家に連絡をしたが、相手にされなかったってな。それでいろいろ調べて俺のとこに連絡したって言ってたけどな。でもそれはおかしいんだよな。社内で俺が海棠家の人間だってことを知っているのは社長以下限られた者だけだ。名前も通称名を使ってるからな。公にしていないことが、なぜあんたの叔母が知ってたのか」
「あの、意味がわかりません。わたしには叔母はいませんし、人違いではないでしょうか」
「俺もわかんねぇからあんたに会いにきたんだろ。お前の親ってもう死んだんだよな?兄弟とかはいなかったのか」
「母は一人っ子ですし、父のほうは幼いときに離婚してもう会っていないので、わかりません」
「名前を確か、村上静子って名乗ってたな」
「村上……」
父の姓である。
「でも、父方の親戚とは一切縁を切っていると聞いてます」
「あんたが海棠柊弥の婚約者になったから、しゃしゃり出てきたに決まってんだろう。そういうこともわからないのか?金が絡んでくると血縁者ほどめんどくさいものはない」
「どうして……」
「俺は正直そういう面倒には関わりたくない。ただでさえ海棠家は面倒ごとばっかで兄貴は苦労してる。さらにあんたのことまで抱えることになるんだ。俺の言ってること、わかるよな?」
尚弥はそういうと立ち上がる。空音を見下ろす視線はあまりにも冷たい。
「これが、連絡先だ。これが本当にあんたの叔母かどうかわからない。金目当てかどうかもわかならない。ただ俺の経験上、財産目当てであんたに接触しようとしてる可能性は高いってことだな」
一枚の紙を受け取り、空音も立ち上がる。見送りに出ようとして遮られた。
連絡先の書かれた紙を見つめながら、空音は呆然と立ち尽くしていた。