【蒼き月の調べ】波瀾編 第1章 - 1/3

「柊弥さんが何時ごろお帰りになるかご存知ですか?」

空音は車の助手席に座るボディガードのひとりに尋ねた。

彼女は無表情のまま、いいえと小さく答えるだけで、空音の望んでいるような会話には発展しない。

彼女の名前は市村春子といい、運転中のもうひとりは春子の兄で敦志という。

このふたりがどういった経緯で空音の警護を務めることになったのかは聞かされていないが、柊弥の命令どおりに毎日空音の傍に付き添い警護している姿を見れば、かなり信用されているのだろうと空音にもわかる。わかるからこそこの二人と仲良くなりたいと思い、あれやこれやと話しかけてみるのだが、かえってくるのはそっけない返事のみで、まともな会話が成立することはなかった。

空音は小さくため息をつくと、窓の外を眺める。まるでどこかのお嬢様のように扱われる日々に慣れたわけではない。それでも柊弥の言う通りにしているのは、柊弥の婚約者である以上、勝手な行動をしてはいけない、と思うからだ。

屋敷に着き、玄関ホールで飛び込んできた人影に空音は目を瞬かせた。

「柊弥さん!」

思わず声をあげて近寄ると、お目当ての人物は優しいまなざしで振り返った。

「空音」

「お帰りなさい、柊弥さん。宮田さんもお疲れ様です」

柊弥のとなりにいる和義にもしっかりと頭を下げ、空音は笑顔を浮かべる。

「今、学校までお迎えにあがろうかとお話していたところです」

柊弥に促され、居間へ向かいながら、学校のことを尋ねられる。この春から音楽科の生徒となった空音の環境はがらりと大きく変わった。そのきっかけをつくった柊弥が気にするのは当然のことだが、柊弥は出張でしばらく留守にしていたのである。

空音は話したいことが山ほどあったが、いざ柊弥を目にすると何から話していいかとあれこれ思いめぐらせる。

「リボンの色が変わったのですね」

和義に指摘され、空音ははい、と笑む。それぞれの学科の生徒を見分けるために月ヶ原学園では制服のリボン、またはネクタイで区別している。調理科は黄色いリボンだったが、音楽科では鮮やかな蒼いリボンだ。

「この色、とても気に入っているんです」

「そうか」

「甲斐さんのおかげでなんとか授業にもついていけていますし、毎日充実しています」

「ならばよかった」

それは決して嘘ではなかったが、全く問題がないわけでもなかった。けれども、この場で柊弥に告げるつもりもなかった。

「空音が寂しそうにしている、と甲斐が言っていたから心配していたが」

「そんなことは」

なんとか携帯電話の扱いを覚えたのはいいものの、柊弥が海外にいるときは、時差もあってなかなか連絡を取ることはできなかった。少し話ができてもゆっくり会話を楽しむことは難しい。

「甲斐がパソコンを教えると言っていたが、どうだ?」

「全然覚えられなくて」

空音があまりに寂しそうにしているからか、甲斐があれやこれやと気にかけてくれ、パソコンでメールを打てるように教えてくれたが、やはり扱うことはできなかった。

「そのようだな。楽器は教えなくても扱えるのに、と甲斐も不思議がっていた」

「・・・・・・ばかにしてます?」

「してないだろう」

空音が頬を膨らませていると、柊弥は和義と顔を見合わせて忍び笑っている。

 

居間へ入ると峰子がお茶を用意して待っていた。空音たちがソファに腰をおろすと、この屋敷で執事のようなことをしている、峰子の秘書の松野がお茶を淹れてくれた。

何か大事な話でもあるのだろうか、と部屋にいるメンバーを見て思う。

こういう状況になるとたいてい柊弥と峰子を中心とした話し合いが行われることを、これまでに空音は学んでいた。

「例の件はどうなりましたか?できればすぐにでも工事にとりかかりたいのですが」

口火を切ったのは柊弥だ。

「ええ、築40年ほどとはいえ、何年も人が住んではおりませんから、改修は必要でしょう。建て替えるというなら反対はいたしませんよ」

淡々と答える峰子に柊弥は頷いた。

何の話をしているのかと不思議に思って、和義の方に視線を向けると、彼はすぐに空音の疑問を理解して、そっと囁くように告げる。

「柊弥と空音さんの新居のお話ですよ」

「新居?」

思わず声をあげてしまって、空音は一気に注目を浴びた。

「ああ、すまない。空音にはまだ話をしていなかったのだが、この海棠家の敷地内に新居を建てる予定でいる」

「ここに住むんじゃないんですか?」

空音は婚約しても結婚してもこの屋敷に住み続けるものとばかり思っていた。なんといっても広い。

「実はこの建物は近く取り壊すことになっているんだ。見てのとおりかなり古く老朽化が進んでいるからな。なにより耐震面での不安が大きい」

「そうなんですね」

確かに歴史ある建物だとは思っていたが、手入れも行き届いており、不自由さは感じなかった。

「海棠家が所有しているこのあたりの土地は広い。だがほとんどが使われないままだ。だからこの辺りを公園にして、自立型高齢者施設を作りたいと思っている」

柊弥の中にそういった考えがあったことを初めて知り、空音はただ驚いた。

「私が、幼少時代を過ごした家が、ここから少し離れた場所にある。この屋敷ほどは大きくはないが、そこを取り壊して新しく建て替えようと思っている」

「そこも取り壊すんですか?」

それが冒頭の峰子との会話につながるのだろう。

柊弥が幼少期を過ごした家というのは両親とともに過ごした家ではないのだろうか。そんな思い出のある家を取り壊すことに抵抗はないのだろうか。

「どちらにしてもリフォームは必要だ」

「でも、柊弥さんが育った家なんでしょう?」

「育ったといっても、その家で過ごしたのは4,5年ほどだ。あとはほとんどこちらの屋敷にいたからな」

空音が複雑そうな顔をしていたからか、柊弥が不思議そうに顔を覗き込んでくる。

「どうせなら空音にとっても新しい家の方がいいかと思ったのだが」

「あの、そのお家、見せてもらうことってできないんですか?」

「明日にでも案内しよう」