【蒼き月の調べ】婚約編 第6章 - 3/5

「本当に見事ですね。いきなりこのような慣れない場でのあの堂々たる姿勢といい、それでいて自分の立ち位置を誤らない控え目さといい、自然にあのように振舞える女子高生はなかなかいませんよ」

柊弥とともに控え室に戻った和義が絶賛する。まったく同じことを思っていたらしい。

空音の祖母は、いつか空音が浜木綿家の血縁者であることを知られたときのことまで考えて、空音をしつけてきたのかもしれない、とさえ思う。

どんな場所に立っても恥じない振る舞いと教養。

月ヶ原学園はそれなりに有名で、マンモス校であるがゆえに全校生徒数も多いため、希望すれば誰でも入れるというようなイメージを持たれることもあるが、試験で好成績だからという理由だけで合格はできない、ということは言わずと知れた事実である。

第1学年はどの専門課程の生徒であっても全教科必須科目であることもそれなりに理由があるのだ。

たとえどんなに有名で芸能活動に多忙な生徒であっても、単位がとれなければ進級はできない。それは生徒たちが社会に出たときに当然持っているべき教養を身につけさせるためであろう。

そのやり方に否定的な者もいるだろうが、評価されているからこそ、多くの有名人や著名人を輩出している。

ネクタイを緩めていると、甲斐がノックもせずにずかずかと入り込んでくる。こちらはすでにネクタイなど取り払い、シャツも胸元までボタンを外している。

「やあ、なんかうちの家族に随分気に入られてたよ、空音ちゃん。そのうち鳳仙家に招待されると思うな」

「空音は玩具ではないんだが」

「まあ、いいじゃない。味方は多いほうがいいんだしさ」

「そうですね。いろいろと先のことを考えれば。我々が常に付き添えるわけではありませんから」

甲斐の言葉に和義も同意する。

確かに空音に好感をもってくれる者たちが増えるのは喜ばしいことではあるが、ただでさえ、自分は仕事で忙しく、空音は学業に専念している高校生ゆえに、ふたりの時間さえ作るのが難しい現状である。これ以上空音を連れ去られるのは柊弥としては少し面白くない。

「で、その空音ちゃんは?」

「部屋に戻って休んでいるはずだが」

「柊弥も早く戻ってあげなよ。ああ見えて緊張はしてたと思うしね」

思わぬところをつかれ、柊弥は眉根を寄せた。―――そうだ、空音はいつもああやって無理をしすぎてしまうのだ。平気そうに見えて、実際はいろいろと思うこともあったに違いない。

「お前に言われるとは」

「柊弥がもたもたしてると俺がもらおうと思ってるからねー」

「……」

「なーんてね、柊弥を敵にはしたくない」

「だったら言うな」

「甲斐、今の柊弥には冗談があまり通用しないので気をつけてください」

二人の間に和義が割って入る。柊弥がため息をつくと、甲斐は楽しそうにその姿を眺めている。

「柊弥のこんな顔が見られるようになっただけでも俺は楽しくてしょうがないからね」

もういい、という風に柊弥は話題を変える。

「甲斐、頼んでいたものはどうだ?間に合いそうか?」

「ん?―――ああ。急がせているから大丈夫だと思うよ」

「ならいい。部屋に戻る」

柊弥はそう言い残すと、二人から逃れるように控え室を後にした。

 

部屋に戻ると、使用人の女性が、空音がソファの上で眠ってしまい、何度起こしても起きないのだと申し訳なさげに告げてきた。

柊弥はそのまま使用人を下がらせると、ソファに横たわって静かな寝息をたてている空音を視界にとらえる。かろうじて着替えだけはすませたのだろう。さきほどのフォーマルではなく、いつも海棠家内で着ているワンピースだ。

時間はもうすぐ日付が変わろうとしている。パーティでは空音は未成年だからということでかなり早い時間帯に部屋に戻らせていた。寝間着を着ていないことからおそらく柊弥を待っているうちに寝入ってしまったのだろう。

婚約者とはいっても、いまだ触れることも容易ではない距離にいる。同じホテルの部屋であっても、寝室は別である。

柊弥は空音の頬にそっと触れる。白く柔らかい感触、そして小さい寝息を零す桜色の唇は艶やかだ。このすべてを自分のものにしてしまいたいという衝動を必死でおさえる。いつまで我慢できるかわからないが、それができなければ空音を本当の意味で得ることはできないだろう、と思う。

「この私をここまで翻弄してくれるのだから、たいしたものだ」

思えばひとりの女性にここまで執着したことは一度もない。これまでも才能のある美女を引き抜いたことはあったが、恋着するなど考えられなかった。身体を合わせたところで女に心を奪われるということ自体ありえなかったのだ。そうしていると空音の身体が僅かに動く。

「……柊弥さん?」

虚ろな目を向けられ、柊弥はかんべんしてくれ、とさえ思う。

「すまない、起こしてしまった」

「わたし、あれ?」

「今日は疲れたのだろう?今、寝室に連れていこうと思っていたところだ」

「柊弥さんが?」

「そうだが?」

「……」

恥ずかしそうに頬を染めたまま見つめてくる瞳に、ますます柊弥はさっさと空音を寝かしてしまわなければ、と焦った。このままでは理性がいくらももたない。

じゃあ、と柊弥は言うと、軽々と空音を抱きかかえ、空音の寝室となっている部屋へと連れて行く。

柊弥専用のオーナーズルームは広いリビングルームに、最初に空音を呼び出したピアノが置いてある客間、そして寝室が3部屋ほどある。書斎や小さな和室もあり、浴室やシャワールームもそれぞれ寝室に備え付けられている。もともと家族で長期滞在できるよう作られた部屋ではあるが、いまのところそのように活用したことは一度もなかった。

仕事で滞在するほか、夜遅い場合や、早朝に出かける場合などに和義と一緒に寝泊りし、仮眠をとる程度に使用されているだけで、女性を連れこんだのも空音が初めてである。

柊弥は空音をベッドに寝かせると、身体を離そうとする。が空音に軽く腕を掴まれ、そのまま柊弥は空音に視線を寄せた。

「ご、ごめんなさい」

「どうかしたか?」

「あの、ありがとうございます」

「ああ、今日はゆっくりと休むといい」

自分に言い聞かせるように、空音に告げる。そして、唇に軽くキスを落とすとそのまま部屋を出た。

まるで子どもを寝かしつけているようだ、と微苦笑しながらも、今はまだ早急にことを進めるべきではないと心の中でつぶやいた。