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柊弥を夫だと思いこんでいるため唯と柊弥を二人残し、空音は純弥と共にダイニングの方へ移動した。純弥が手馴れた様子で紅茶を淹れるのを、空音はじっと見つめていた。「わたしがやります」と言おうとしてやんわりと遮られてしまったからだ。
空音は柊弥がお茶など淹れるのを見たことがない。海棠家の屋敷には少ないけれど使用人や料理人がいる。だからというわけではないが、どこか意外なものを感じた。
「驚かれたでしょう?」
そっと紅茶を差し出され、空音は少しだけ、と答えた。
柊弥の話ではもっと厳しいイメージがあったが、会ってみれば物言いの穏やかな男性だと感じられた。柊弥の伯父だという正臣とは異母兄弟のはずだが、似ているところはひとつもなかった。
「妻のこともあってか柊弥は結婚など興味ないと言っていたんですが、こんなに素敵なお嬢さんをつれてくるとは夢のようです」
純弥は満足そうに言うので、空音は思わず頬を赤らめた。自分など高校生で柊弥につり合うのだろうかという気持ちを見透かされているようだ。
「柊弥は生真面目で、少々不器用なところがあるんですよ。だから、親の結婚が不幸な結果を招けば、愛のない結婚をしようとしたり、それが上手くいかなければもはや結婚の意味などない、などと言い出す」
「愛のない結婚……ですか?」
それは初めて聞くことだった。
以前に付き合っていた女性がいてもおかしくないが、愛のない結婚、という言葉がどうしても柊弥に当てはまらなかった。確かに一見、無感情的なところがあるが、空音はそうでない彼をよく知っている。
「以前にね、もう過ぎたことですが、どこか名家のお嬢さんを連れてきたことがあります。ただその女性は妻の体調を目にしたとたん去っていった」
「え?」
なぜ、純弥がそのような過去の話を持ち出したのか。穏やかでいて、どこか空音を試すかのような言葉を空音はじっと聞いていた。
「その頃の妻の精神状態があまりよくなかったのもあってね。義母となる女性がこのような状態では自分が苦労すると思ったのか、世間体を気にしてなのか、まぁデメリットになるような面倒なことを避けたかったのでしょう。空音さんは大丈夫ですか?」
「わたし……ですか?」
大丈夫、という言葉が何に対してなのか不思議に思いつつ、空音は正直に答える。
「わたしにはもう母がいないので、生きていたら……なにをしてあげられただろうって思うだけです」
そう思ったら、勝手に身体が動いていた。
もうおぼろげにしか覚えていない母。祖母の話では、母もまた音楽が好きだったことを聞いた。幼い頃にはピアノ教室に通い、空音にも通わせたいのだと話していたと言う。それならば、空音がピアノを弾けば母もまた喜んでくれただろうか、と。
「そうか、そうでしたね」
「あの、勝手なことをしてしまって申し訳ありませんでした」
「いいえ、私は感謝しています。素敵な演奏を聴かせていただいた。妻もとても楽しそうでした。空音さんは音楽がお好きなんですね」
「はい」
「オルガンの方が興味がおありになるんだとか」
「はい。ピアノが好きじゃないとかではないんですけど、きっと幼い頃からオルガンに触れていたせいだと思います」
「オルガンの音には大切な思い出がたくさんあるんですね」
「はい」
「辛いときや苦しいときもあったでしょう?空音さんを支えたのは音楽なのかな?」
そう言われて初めて、確かに空音は嬉しいときも悲しいときも、音を奏でていたことを思い出す。
「そうかもしれません」
「だから空音さんはとても強い方なんですね」
強い、と言われたのは初めてで、空音は思わずぽかんとしてしまった。今の話の流れでどうしてそんなことを言われるのかもよくわからなかった。
「大切なものがあれば人は強くなれます」
純弥はティーカップを手に取り、紅茶を口に含めると再び口を開いた。
「柊弥はああ見えて繊細なところがある。幼い頃から大人の顔色を伺いながら、海棠家の長男として常に期待に応えてきた。弟の尚弥の方は問題ばかり起こしてくれる中で、柊弥は優等生でありがなら文句のひとつも言わない。昔はよく笑う子だったのに、いつの間に笑わなくなったのか、親の私にも気づけなかった」
「はい」
少し淋しげにそう語る表情はやはり柊弥に似ている。
「夫婦でありつづけることも、家族であることも楽しいことばかりではありません。けれど、苦しみも悲しみも共にのりこえるからこそ、夫婦となり家族となれるのでしょう。私達家族はバラバラになり、もう元に戻ることはできない場所まで来てしまった。これではもはや家族とは呼べないかもしれませんね」
似たような言葉を子どもの頃に聞いたことがあった。
「……あの、元に戻すことはできなくても新しい関係を築いていくことはできないんでしょうか?」
「新しい?」
「はい。親子という関係ではなくて、新しい家族の関係です。上手く言えないんですけど、わたしには母方の祖父がふたりいます。戸籍上の祖父と、血のつながりのある祖父と。ふたりともわたしの大切な家族でした。そして幼い頃に母を亡くしているわたしにとってはこれまで育ててくれた祖母が、本当の母以上に母のような存在でした。唯さんは柊弥さんにとってたったひとりのお母様です。その事実を変えることはできないけれど、親子という関係に囚われず、唯さんと柊弥さんの家族としての関係を一から築いていくことは……やっぱり負担になってしまうんでしょうか?」
空音が育った家庭も、最後には家族バラバラになってしまった。そして今は家族というすべてを失ってしまった。父親がいて母親がいて、そんなことが当たり前だった生活を、空音はもう覚えてはいない。記憶にすら残らない家族。もう二度と戻ることはできない。けれども、思うことがある。もしもみんなが生きていてくれたなら、両親とか祖父母とか、そういった関係を取り払って一から家族としての関係を築いていくことができたかもしれない、と。
少し驚いたように空音をじっと見返していた純弥は、ふと笑みを浮かべる。
「―――空音さん」
「はい」
「協力してもらえますか?」
「え?」
「今、空音さんがおっしゃったことです。私や妻が子どもたちと新しい関係を築いていけるよう、協力してもらってもいいですか?」
その言葉に、空音の言いたいことは伝わったのだと空音は表情を明るくした。そして、はい、と応えた。
純弥は少しだけ俯き加減に瞳を閉じると、再び笑顔を見せた。
「空音さん、柊弥をお願いします」
「え。いえ、そんな。わたしの方こそよろしくお願いします」
深々と頭を下げられ空音は困惑し、同じように頭を下げた。その時、ふいに結婚しないと決めた柊弥の心が自分の心と重なるのがわかった。もしかすると、柊弥もまた怖かったのかもしれない。家族が壊れていくことが。大切な人が離れていくことが―――。
「そろそろ、戻りましょうか」
「はい」
その後、再び4人で話をしたが、それ以上は唯を混乱させないように、と柊弥と空音は早々に別荘を後にした。