【蒼き月の調べ】婚約編 第4章 - 2/5

「久しぶりですね、こうやってお会いするのは」

人払いをし、完全にふたりきりになったところで、峰子はどこか彼女に畏怖を感じているような正臣に向き合った。

パーティなどで顔を合わせることはあっても、正臣が成人してからこうやってふたりきりで話をするのは初めてだ。数十年、それほど長い年月がながれている。

「正臣さんは海棠家をどうなさりたいのです?」

「どう、とは意味がわかりませんね、お義母様」

正臣は視線を逸らすように誰もいなくなったドアを見つめた。その瞳は一体何を見ていたのだろうか。

「血のつながりのない私を母などと思ったことは一度もないのでしょう。無理なさらずともよいのです。あなたがなさりたいのは海棠家の財産をすべてを受け継ぐことでしょうか、それとも海棠家のすべてを壊してしまうことでしょうか?」

「まさか、そのどちらもノーですよ」

「ですが、今回あなたがなさろうとしたことは確実に柊弥さんを陥れることでしょう?ひとつ間違えば大きな問題となることくらいあなたにもわかるでしょう」

「私は真実を話したまで。それを面白おかしく書きたてたのは記者のほうです。そんなおおげさな話になるとは夢にも思いませんでしたよ」

「そうですか」

「それに、そんなたわいもない噂話で海棠家が築きあげてきたものが瓦解するとは思えませんがね」

正臣の真意が見えず、峰子はひとつため息をついた。いや、真意などとうにわかっている。ただ彼にどう言えばいいか、ここまできても迷うのだ。

「純一郎さんはあなたの欲しいものは与えたものと思っていましたが」

「欲しいもの?つぶれかけた会社や無能な社員を欲しがったとでも?ただいらなくなったものを押し付けただけでしょう」

投げ捨てるようにそう言った正臣の言葉に、峰子は驚きを隠せなかった。

「本気でおっしゃっているの?」

純一郎が正臣に引き継がせたものは、すべて彼が精一杯力を注いできた事業ばかりだ。傍で手腕を見てきた正臣だからこそ、受け継いでいけると思ったからこその人選だった。それを正臣自身よくわかっていると峰子は思っていた。

一方で海外生活の長かった自分の息子、純弥に海外事業を任せたのは決して欲目からではなく誰もが認める当然の人選だったはずだ。正臣とて反対の声をあげたりはしなかった。

ただ、純弥は自ら、家族のために事業を縮小していくことになったが、その選択を峰子は何も言わず受け入れた。―――ゆえに父から受け継ぐものなどない孫の柊弥が与えられたのは海棠家という名前だけだった。その名前だけで新しい事業を次々に立ち上げ、いまや20代の若き青年実業家として名をはせている。

「確かに、あなたは不満に思って当然なのでしょう。海棠家の名を継ぎ、総帥となったのは私の息子、純弥です。しかも今はそれも名ばかり、ほとんどは柊弥が支えているのが実態ですからね。けれど、柊弥は何の努力もなしに与えられたものを守っているわけではありませんよ。純弥もそれをわかっているからこそ、柊弥を信頼しすべてを任せているのです」

「私には任せられないと?妾腹ですからね」

「それは違います。正臣さん、純一郎さんがあなたに遺したものは何も会社だけではないでしょう。あなたが自由に運用できる資金も公平に分配されているはずです。その資金をもとに新たな事業を立ち上げることもできたでしょう。あなたが柊弥を憎む理由が私にはわからないのです。私や純弥ならまだしも、柊弥はあなたに支援こそすれ、憎まれるようなことはなにひとつしていないはずです。私にはあなたが海棠家のすべてを憎んでいるようにしか見えないのです」

「身寄りのない私を引き入れてくださった海棠家と、あなたには感謝していますよ。かような話をするためにわざわざいらっしゃったのですか」

「いいえ。今後一切、杉山空音さんに関わること、彼女に関する噂を世の中に流すようなことをなさらぬよう、申し上げにきたのです」

「あの娘はただの一般人でしょう。噂になったとしても一時的なものですよ。どうしてそこまでこだわるのです」

峰子は強い眼差しを正臣に向けた。それ以上口を開くことは許さないといった視線に、正臣は少し身体をびくりとさせた。

「才能ある若い女性の未来を壊すようなことをする人物に、海棠家を任せることなどできません」

ピシャっと言い放った強い口調の言葉の裏には威厳のようなものがある。黙り込んだ正臣をじっと見据えて、峰子は続ける。

「あなたが本当につぶれかけた会社を受け継いだと思ったのなら拒否なされば良かっただけのことです。いつだって売却なりなんなりできたでしょう。わざわざ私や柊弥から資金援助など受けずともあなたは好きなようにできたはずです。それをなさらなかったのはなぜですか。純一郎さんが一生懸命築きあげてきたものだから、あなたは手放すことができずにいた、そう思ったからこそ私は援助を続けてきたのです。けれどもそれももう終わりにするしかありません。私がなすべきことは純一郎さんの遺したものを守ることではありません。海棠家の名を守ることです。正臣さん、これだけは覚えておきなさい。私は海棠家の名前を守るためならあなたをこの家から追い出すことだってできるのです」

「ははは、今更脅しですか?」

峰子は一度瞑目すると静かに自らのバッグに手をかけ、封筒を取り出した。そして黙ったまま、それを正臣に手渡した。―――これを手渡す日が来ないこと、それだけを願っていた。けれども、もうそれはできない。

「この真実をあたなに告げたくはありませんでしたよ」

峰子はそう言い残すと踵をかえし、静かに部屋を出た。

 

「峰子様、よくご決断なさいましたね」

自宅に戻ってくるなり松野が心配そうに声をかける。その理由は、あの事実を正臣に告げることになってしまったことだろう。

夫亡き今、自分の心に秘めておこうと思っていた真実。

「血のつながりがないとわかれば、彼の箍はなくなるでしょう。それで海棠家への復讐めいた感情が強まるか、弱まるか、賭けなのかもしれませんね」

正臣は子どもの頃から自分が海棠家の血をひいているのだと、信じて疑わなかった。それは純一郎が否定しなかったからだ。けれども、純一郎は正臣を海棠家に引き入れることだけは最後の最後まで反対していた。その理由が、今の峰子には理解できる。

その真実を知ったのは純一郎の遺物の整理をしていたときだった。不自然にしまわれていた真っ白な封筒。中身は正臣が純一郎の実子ではないという、DNA鑑定の結果が書かれた書類があった。その真実を純一郎は隠し続けてきた。だからこそ、それを見つけた峰子もその真実を見てみぬふりをしてきたのだ。

「それにしても 松野さんはご存知だったのね」

「はっきりとは知りませんでしたよ。けれども、純一郎様のお傍には長くおりましたから、なんとなくそうではないかと…」

「純一郎さんは墓場まで持っていくつもりだったのでしょうね」

「それはどうでしょう。でしたらそのようなものを遺して亡くなったりするような方ではないでしょう」

「そうですね。あの人はいつかこうなることを知っていたのかしら」

「そうだとしても、峰子様のこと、海棠家のことを思ってのことだと思いますよ」

「正臣さんを海棠家に引き入れてしまったのは私。解放してあげなければならないのも私だと思ったのです」

「ならば、良き結果となるよう願うだけです」

 

柊弥の来訪――実際には帰宅というが――を告げられたのは峰子がいつもより遅い朝食を終えた頃だった。病院から直接職場へと向かい、一仕事終えてきたのであろう彼は一睡もしていないのだろう。いつもの涼やかな顔には疲労の色が隠せないようだった。

「お婆様、申し訳ありませんでした」

柊弥は峰子の姿を見るなり頭を深く下げる。

「顔を上げてちょうだい、柊弥さん。空音さんのご容態は?」

「まだ微熱はありますが、合併症などの心配はないそうです。血液検査の結果が今日分かるかと」

「そう」

「目を覚ませば退院させても大丈夫とのことでしたが、今動かすのも負担がかかるでしょうから、医師とも相談して2、3日は入院させることになりました」

「そうね。そのほうがいいわ」

空音が入院している椿医大付属病院は一部ホテルのようになっている病棟があり、そこは関係者以外立ち入ることができない。要人たちも利用することの多いこの病院ではしっかりとしたセキュリティ体勢を整えている。

「柊弥さんもお疲れでしょう、少し休んでお行きなさい」

「いいえ、まだやるべきことがあります」

「この大事な時にあなたまで倒れては、それこそ大変でしょう?」

「それはそうですが」

「あの方を海棠家に引き取ったのは私の責任ですから、柊弥さんが気に病む必要は何もないのですよ。空音さんの存在があのように利用されるとは思ってもみませんでしたけど、まさか、あなたが愛人として育てているなどと馬鹿げた記事になろうとは―――私にも想像できませんでした」

峰子が言うと、柊弥は軽くため息をつく。その姿があまりにも力なさげだったため、峰子は優しく柊弥に微笑みかける。気に病んでいるのはむしろ空音に関することなのだろう。

「できれば空音さんの存在を公にはしたくなかったのですけど」

「お婆様がそこまで空音にこだわる理由がいまひとつわからないのですが」

柊弥がそう尋ねると、峰子は何かを飲み込むように一瞬だけ瞑目した。柊弥の気持ちが本物ならば、話しておくべきことだ。

「―――空音さんは、浜木綿(はまゆう)家の血をひいているのです」

「浜木綿家」

驚きを隠せない柊弥に、峰子はひとつ頷くと、自分の生家である浜木綿家のことを語り始める。

「空音さんの祖母、路緒さんと私は従姉妹です。友人だと言ったのは空音さんが浜木綿家の人間だということを公にはしたくなかったから」

「では、空音は……」

「そう、柊弥さんとも遠い親戚になりますね」

峰子の生家である浜木綿家は跡継ぎを失いすでに没落しているがかつては名門の一族だった。その家から峰子は海棠家に嫁いできたのである。

「ただ、空音さんはそのことは一切知らされておりません。空音さんが成人するまでは告げないようにと路緒さんからの遺言なのです。ですから柊弥さんもこのことは他言なさらぬようお願いしますね」

「……はい」

「空音さんは一般の家庭に生まれ育ちました。ご両親の離婚やご家族の不幸が続いて複雑な家庭環境ではありましたけどね。ただ没落したとはいえ浜木綿家の血をひくものが全くいなくなったわけではないのです。わずかとはいえ浜木綿家の財産はすべて空音さんに相続されることになっています。彼らに空音さんの存在を知られたくない、というのが私の事情です」

「そうでしたか」

金が絡むとどんなに遠縁であってもいきなり現れてくる輩がいることは柊弥とて知っているだろう。海棠家でも愛人を作っていた先祖もおり、その子孫ともなればどれほどいるのか峰子とていまだに分からない。過去にも海棠家の血を引いています、と現れた者はひとりやふたりではなかった。

「それにしても、空音さんと婚約などと、わたしは一言も聞いておりませんよ」

「……」

「空音さんは同意していらっしゃるの?」

「いえ」

「そうでしょうね。空音さんはあまり結婚に対して良いイメージをもっていらっしゃらないから」

峰子が初めて会ったのは、空音が6歳くらいのときだったか。にこりとも笑わない、妙に大人びた目が印象的だった。父親の暴力で逃げるようにして家を出て、安全のために一時、峰子が預かった空音は、返事しかない、悪く言えば愛想のない少女だった。

それから数年後に再会した時は、別人のようににこにこ微笑む空音に驚きを隠せなかったものだ。母を亡くし、祖母の路緒のもとで生活していた空音は路緒の経営する料亭へ時々手伝いに来ており、峰子が訪れる度に笑顔で歓迎してくれた。

料亭は路緒の人脈もあってか、富裕層も多く訪れており、路緒の教育もしっかりなされ、店に出て看板娘として接客をしているうちに自然とその礼儀作法を身につけていったのだろう。自分よりも遥かに年上で、偉い人物を目の前にしても物怖じひとつせず笑顔で接する空音は多くの客たちから好感をもたれていた。路緒が病気を患い、店をたたむことになり、一番悲しんだのは空音自身だったのかもしれない。そう思えばもう一度店を再開するつもりで調理師を目指したのも納得がいく。

しかしながら空音はおそらく祖父の血を多く引き継いでいる。空音の母親がそうだったように。その道のプロを多く知る峰子でさえも空音の才能には驚かされるほどのものだった。そのことに空音自身気づいていない。好きなだけで簡単に食べていける世界でないこともよくわかっている。

この海棠家の後ろ盾があれば、空音は心置きなく好きなことができるだろう。けれどもそれは多くの問題に巻き込むことにもなる。だからこそ峰子は空音を養女にはしなかったのだし、ただの法的な後見となることにとどめたのだ。

「空音さんのご両親は結婚して不幸になったのだと、空音さんは思っているでしょう。路緒さんは本当に好きな人とは結婚できなかったけれど、その後再会し、穏やかな老後を送っていらっしゃった。柊弥さんも同じではないの?あなたは私の結婚を政略結婚だと思っているでしょう?たとえ、大恋愛の末に結ばれたとしても、両親のようになってしまう……、と」

柊弥は峰子の視線から逃れるように顔を背ける。

「けれどもね、それはあなたから見た判断であって、本当に幸せかどうかを知っているのは本人だけだと思いませんか?確かに私は政略結婚でした。海棠家に嫁いできて、多くの苦労もいたしました。それでも私はここへ嫁いできたことを後悔してはおりませんよ。幸せかと聞かれれば、間違いなく幸せだと答えます」

「なぜ――?」

「この家では何不自由ない生活をさせていただき、純一郎さんにはとても大切にしていただきました。子どもにも恵まれ、こうして立派な孫にも恵まれたのです。たったひとつの不幸は娘を失ったことだけです」

「父と、母は幸せなのでしょうか」

「それは本人たちに聞いてごらんなさい」

「……」

「空音さんはたくさん苦労なさってきているにも関わらず、いつも笑顔を絶やさないわ。それは路緒さんたちがたくさん愛情を注いできたことも理由でしょうけれど、彼女自身の抱える心の傷がそうさせてもいるのでしょう。いずれにせよ、私は空音さんの成長を見届けたいと思うのです」

「お婆様」

「柊弥さんと空音さんはよく似ていらっしゃるわね。柊弥さん、本当に大事なことは言葉にしなければ伝わりませんよ」

俯く柊弥が、峰子にはただの可愛らしい孫にしか見えない。ひとりで重責を背負っていこうとしているこの健気な孫に、ただ幸せであってほしいのだ。

「私は確かに、空音さんを海棠家の問題に巻き込みたくないとは言いましたけれど、空音さんが幸せならば、どのような結果になろうとも応援いたします。幸せとはどんなときもすべての人の心の中に存在しているものです。ただそれに気づけるか、どうかだと思いませんか」