【蒼き月の調べ】婚約編 第3章 - 6/7

空音は座りこんだまま微動だにしない。そんな様子を見かねてか、担任の須山はお茶を目の前に差し出した。

「大丈夫か?」

こくんと小さく頷いて、また空音は下を向いた。

柊弥にホテルから一歩も出るなときつく言われていたにも関わらず、気づいたらホテルを飛び出していた。最初は学校に行くつもりで、電車に乗ったが、もしも騒ぎになって学校側に迷惑をかけることになってはいけないと、思い、途中で行き先を変更し、祖母と暮らした家に向かった。家は空音が出たときのままだったが、鍵を持っていないことに気づいて中に入ることはできなかった。とぼとぼと歩いているとすでにあたりは暗くなっており、行くあてもなく歩いているところを警察に補導され、何も話そうとしない空音の姿が月ヶ原学園の制服であることに気づいた警察官が学校に連絡をいれ、担任の須山に迎えに来てもらったのだ。

結局のところ、空音の親代わりとなっている峰子の元に連絡が行くことになるのだろうが、その峰子は現在海外に行っている。そうなれば自然と柊弥がくるのだろう。

けれども、空音はどうしても柊弥には会いたくなかった。

「会社の方に連絡をしたら、秘書の人がすぐに迎えに来るそうだ」

それを聞いて空音は少しだけホッとした。

秘書の和義に迎えにきてもらえないかと、小さな望みをかけて会社の方に連絡をしてもらったのだ。あまりにも自分勝手すぎるわがままに、いつも優しい和義もあきれ果ててしまうかもしれない、そんな風に考えながらも、空音の脳裏にはあの冷たい表情をした柊弥の顔が張り付いたまま消えなかった。

なぜ、婚約という大事なことをあんな風に簡単に口にしてしまえるのか、空音には全く理解ができなかった。しかも彼は、騒動がおさまれば婚約など簡単に解消できる、とまで言ったのだ。まるで”婚約”や”結婚”というものが、なにかの手段のひとつのようなそんな言い方だった。

これまで誰かが言うように柊弥が怖いと思ったことは一度もなかったが、初めてその冷酷さに触れたような気がしてどこか近寄り難さを感じたのだった。

 

まもなくして須山の元を訪ね、空音を迎えにきたのは、和義ではなく見たこともない若い女性だった。彼女は高田栄子と名乗り、柊弥の第二秘書だと言った。空音自身は栄子に会ったことはなかったが、名刺を見れば確かに柊弥の秘書で、和義から頼まれたのだと言う。その和義から以前、柊弥のスケジュール管理をしている女性秘書もいる、と聞いたことを思い出した空音はそのまま栄子と共に海棠家の屋敷に戻ることになった。

「うちの学校はいつでも杉山のような状況になりそうな生徒が山ほどいるから、学校側もそれなりにちゃんとしてるし、心配せずに来られるようになったら来いよ」

須山はそれまでなにも語らなかったが、あらかた事情を知っている風に言った。空音はそれに頭をさげて、ありがとうございます、と小さく答えた。

そういえば空音とはほとんど関係がなかったが、月ヶ原学園には芸能コースというクラスもあり、芸能人の子どもや、実際に芸能活動をしている生徒が通っている。その他専門科のクラスでも才能の秀でた生徒はいろんな分野で活躍をしそれなりに雑誌やテレビの取材をされていたりもする。しかしながら学校側の対応はマニュアル化してあるのか、そういった状況にも冷静に対応している。それを思い出し、須山の言うことは嘘ではないのだろうと、どこか安心した。

それならば、近いうちに学校へは行けそうな気がした。

「先生、本当にありがとうございました」

もう一度空音は須山にそう告げると、栄子の運転してきた車に乗り込んだ。

いつも迷惑をかけてばかりだ、と空音は思う。自分が未成年でまだ子どもだから、いつでも与えられて守ってもらうばかりなのだと。

栄子は無言で、車を発進させる。

すでに闇夜の道路を静かに走り抜けていくのだった。

 

「あの、どこへいくんですか?」

暗闇と言えど、学校から海棠家の屋敷はそれほど遠くはない。ホテルに向かっているようでもなかった。見知らぬ夜景の中を通り過ぎていくのを見て、空音は不安げに運転席の女性に尋ねる。

「ご存知ないのですか?海棠家のお屋敷はたくさんございます」

そう答えられてしまうと、空音は何も言うことはできない。ただ連れて行かれるところへ黙ってついていくことしかできない。

言われるがままに見知らぬ屋敷に迎え入れられ、その一室へと促された。広い部屋には豪奢な家具と価値のある置物がいくつも飾られてある。ソファにどしりと腰掛けた初老の男はにやりと口元を緩めた。どこか不気味さを感じながら目の前の男をじっと見据えていると、自分を連れてきた女性秘書は部屋を出て行ってしまった。これでこの部屋に残されたのは空音と目の前の男だけだ。

「やはり美しい娘だな。柊弥がどの女にも靡かぬわけだ」

「あの…あなたは…?」

「海棠正臣という。柊弥の伯父になる」

「伯父様…柊弥さんの伯父様がなぜわたしを?柊弥さんに頼まれたのですか?」

「君が随分と柊弥と親しいと聞いてな。一度会ってみたいと思っただけだ」

空音は困惑した。ただそれだけのためにこの場所へ呼ばれたというのだろうか。柊弥は知っているのだろうか。

空音はなぜこの場所へいるのかよくわからないでいた。自分は婚約の話を聞かされホテルを飛び出したはずだったのだ。

確かに空音がお世話になっている海棠家は親族も多く、柊弥に伯父がいてもなんらおかしくはない。ただその話を空音が聞いたことは一度もなく、海棠正臣という名前も初めて聞いた。

「お前は一体どういうつもりで柊弥の傍にいるのだ」

どういうつもり、と言われても空音はどう答えていいかわからない。そもそもこの質問の意味もよくわからない。空音が声を出せないでいると目の前の人物は不適な笑みを浮かべている。

「柊弥はお前を婚約者だと言ったが、それは事実なのか?お前には身内はおらぬようだが、その身を使って柊弥に取り入ったか。若くて美しいとは得するものだな」

舐めるように見つめてくる視線にどこか恐怖を感じ、空音はその場を逃げ出したくなった。けれども身体は硬直したように動かない。

「しかし、あの柊弥が女を喜ばせられるとは思わんが、どうだ?物足りなければ私のところへ来てみないか。若さでは負けるが、柊弥よりは楽しませてやれるぞ」

空音には一体何の話をしているのか、正臣が何を言いたいのか理解できずただただ困惑した。それでも何かを話さなければ、と思い口を開く。

「……柊弥さんはわたしの進路の相談にのってくれているだけです」

事実のままにそう告げると、正臣の眉がぴくりと動く。

「進路?」

「音大に行くための・・・」

「ほう、では深い関係は全くないというのか」

正臣は興味深そうに空音を眺めた。信じられない、という顔だ。

深い関係、というのが何を表すのか、やはり空音にはよくわからず、どう答えてよいかわからない。

「柊弥がどういう人物が知っているか」

「お仕事をたくさん抱えていてとてもお忙しい方だと」

「そう、あいつは様々な新規事業を立ち上げ、代々海棠家が引き継いできた事業をことごとく潰している」

「え?」

「亡き父より引き継いだ私の会社も潰そうとしている。私の会社だけではない。そうやってあいつは無駄だと判断したものは容赦なく排除していくのだ。たとえそれが自分の伯父の会社であってもな。そういう非道な男だ」

ふいに空音には柊弥の冷たい視線が蘇った。しかしながら、目の前にいる男の言葉がすべて真実だとも思えなかった。

「わたしには仕事のことはわかりません」

そう言うと、正臣は立ち上がりゆっくりと空音に近寄ってきた。大きなごつごつとした手のひらが空音の頬に触れる。ひんやりと感じられて、思わず一歩後ずさる。

「柊弥はお前が役に立たないと判断すればあっさりとお前を捨てるだろう。――私のもとへこないか?資金援助などいくらでもしてやろう。欲しいものを与え、やりたいことを自由にすればよい。妻や他の女たちもそうしているのだからな。どうだ?」

空音はぼんやりとその言葉を聞いていた。どんなに魅力的に聞こえるだろう言葉も空音の心には入ってはこない。

「愛人は嫌か?」

「あいじん?」

「そう呼ばれるのが嫌か?まあ妻と言っても紙切れ一枚の関係でしかないから気にせずともよい。あの女にも若い男の愛人がいくらでもいる」

空音は無意識のうちに憂いのようなどこか憐れみのこもった目で正臣を見上げた。

正臣はその双眸を見た瞬間、何かが頭をよぎったのか、不快感露わに空音の頬をおもいっきりぶった。激しい音とともに、勢いで空音の細い身体はよろめいて、そのまま絨毯の上に倒れこんだ。

「その目で私を見るな!!」

怒号を空音はどこか夢の中で聞いた。目の前が真っ白になっていくような気がした。何もかもが目の前から失われていく中で、自分の名前を呼ぶ声が微かに聞こえた。