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その夜、長い一日だったはずなのに空音はなかなか眠りに就くことができず、いつの間にかオルガンの置いてある洋間に足を運んでいた。空音の家にあったリードオルガンもこの部屋に置かれていた。電子オルガンとグランドピアノが置かれた広いホールのようになっている洋間は防音もしっかり整った部屋だということで、いつでも好きな時に弾いてもよいのだと言われていた。けれどもさすがにこのような深夜に足を踏み入れたのはこの日が初めてだった。
空音は幼い頃から弾いてきたオルガンに触れる。単調で物足りないように感じるこの音も大好きだが、やはりパイプオルガンの壮大さはあまりにも魅力的だった。なんだかこの短い期間にいろんなことがありすぎて、空音の心の追いつかないまま、環境ががらりと変わっていく。忙しい日々をなんとか歩いていくだけで精一杯なはずなのに、いろんな現実や未来が揺らいでいくのを感じていた。
「おばあちゃん……」
ぽつり、とつぶやいて空音は音を紡いだ。
子どもの頃から、声がしていた。それは空音の耳にしか届かない不思議な音だった。その音が聞こえる人物を空音はもうひとり知っている。戸籍の上ではつがなりのない、それでも紛れもなく空音の祖父であるドイツ人のラルス。色んな事情から祖母が結婚することのできなかった相手。気づくと空音の傍にいていつも朗らかに笑い、オルガンを奏でてくれた。そんなラルスがいつも弾いてくれた曲が『蒼き月の調べ』だった。ラルスが空音に遺してくれたのはその曲と笑顔でいることの幸福だ。では祖母が空音に遺してくれた最高の贈り物は、なんの曇りもない純白の未来なのかもしれないと思い、静かに瞑目した。
早くに両親がいなくなった空音を愛し、育ててくれたふたり。早く自立して安心させたかった、ひとりでも生きていけるように、と高校生で調理師免許のとれる調理科を選んだ。空音の選択に祖母は何も言わなかったけれど、どこかで残念そうな顔をしていなかったか。祖母もラルスも空音が音楽の好きなことを知っていた。それでも空音は音楽の道を選択しなかった。それは間違いだったのだろうか。
今日、普通に生活していれば一生弾くことのないような立派なパイプオルガンを弾かせてもらい、心が躍るように楽しかった。そんな気持ちをずっと封印してきたような気がする。と同時に、自分は本当にたったひとりになってしまったのだという事実を受け止めなければならなかった。
峰子も、そして柊弥も、周りにいる人たちはとても空音に親切にしてくれる。いつまでもその好意に甘えているわけにはいかない――。
そう思うと、空音の瞳から溢れてくるものを止めることができなかった。指は勝手に鍵盤を叩く。それはまるで空音の慟哭に同調しているように奏でられている。
「空音」
その声に空音はハッとして音を止める。
「柊弥さん」
見ると、いつの間に入ってきたのか、スーツ姿のまま柊弥が立っている。空音はとっさに涙を拭う。
「ご、ごめんなさい。音が漏れていましたか?」
「いや。……泣いていたのか」
「……」
柊弥が立ち上がった空音に近づき、湿った頬に右手を添えると、びくっとして柊弥から顔を隠すように下を向いた。柊弥は静かに空音を見下ろしている。
「悲しいときは泣いてもいいんだ」
「……」
「ただ、その悲しみをひとりで抱えようとはするな」
柊弥はどこか苦しげにそう告げた。けれどその声は優しく空音の心にすんなりと響いた。間接照明が煌々としている中、ふたつの影が重なった。
柊弥が空音の細い身体を抱き寄せると、空音は柊弥の胸の顔をうずめたまま小さくつぶやく。
「泣いても、いいですか」
「ここは防音がしっかりしているから大声をあげてもかまわない」
その言い方が、少しだけ心を慰めた。そして一気に緩んだ気持ちを柊弥にぶつけるかのように、泣いた。しっかりとした腕は空音の身体をすべて受け止め、背中をさすってくれる大きな手の感触が心地よく、空音は安心感でいっぱいになった。いつまでもこの安心感の中にいたいと思いながらも、いつかはひとりで歩いていかなければならないのだと思い知らされる。悲しみも辛さも、これを最後にしよう、と思う。思いっきり泣いて明日から前を向いて歩いていかなければならない。他ならぬ空音自身の未来のため。声を上げて泣いたのは久しぶりで、とめどなく流れてくる涙が枯れることを知らないかのように柊弥のスーツを濡らした。
気づくと空音は自分の部屋のベッドの上に寝かされていて、あのまま泣きつかれて寝てしまったのだろうかとぼんやりと考え、ハッとして飛び起きる。
海棠家にきてからパジャマがわりに浴衣を着ており、その姿のまま柊弥に抱きつくようにして泣き叫んでしまった。しかも幼い子どものように。思い出しただけでも恥ずかしさがこみ上げてきたが、今更どうすることもできない。浴衣は少し乱れてはいたものの、これは寝ていたときに着崩れたものだろう。ブラジャーすらつけていない状態なことに気づき、空音は頭を抱えた。
「は、恥ずかしい……」
朝食の席でどんな顔をして会えばよいのかあれこれ苦悶しながらダイニングルームへと向かったが、そこにいたのは峰子だけだった。柊弥は仕事のためすでに出かけた後で、空音はほっとするやらどっか残念な気持ちになった。
挨拶を交わしたとき、峰子は空音の瞳が赤いことに気づいているようだったが何も言わなかったので、空音も何も言わなかった。
「峰子さん」
「なにかしら?」
「わたしが音楽の道に進みたいと言っていたら、祖母はもっと喜んでくれたのでしょうか」
いつも温かな眼差しを向けてくれる峰子はどこか祖母の路緒に似ている。厳しいところをもちながらも、そこにあるのは相手に対する愛情であり、思いやりであることを空音は知っている。そんな祖母に恩返しをしたかった。けれどその祖母はもういない。
「空音さんの才能あることを一番自慢なさっていたのは路緒さんですよ。自分のためにやりたいことを諦めているのではないかしら、といつも気にされていたんですもの」
「そうなのですか?」
「ええ、けれど、あなたの進む道に口出しをすべきではない。空音さんが決めたことを応援するのが自分の役目だと常々おっしゃっていましたから」
その言葉を聞いて、空音は両手をぎゅっと握り締めた。
「わたし、パイプオルガンを学んでみたいんです」
「そう、受験までは甲斐さんに学ぶのね」
「はい」
すべてわかっていたかのように峰子はすんなり頷いた。
「では、甲斐さんをお呼びしておきましょう」
「いえ、自分で行ってお話します」
そう、と峰子は微笑んだ。