【蒼き月の調べ】婚約編 第2章 - 5/6

海棠家の屋敷に着き、和義は簡単に翌日の予定だけ告げると自宅へと帰っていった。使用人たちを下がらせ、空音もあてがわれている自室へと下がった。広い和室にはただ柊弥と峰子だけが残り、目の前の座卓には茶器だけが置かれてあった。

峰子自らお茶を淹れると、黙ったままの柊弥に差し出した。

「で、お話とはなんでしょう」

「空音のことです」

ぴくりと峰子の眉が動いた。

「随分と親しいご様子だけれど、空音さんとはいつお会いになったの?」

「昨年、知人の結婚式でピアノを弾いている姿を見たのが最初です。夏に職業体験でホテルに来ていた彼女に会いました」

「ああ、そういえばそうでしたね。では空音さんにお会いしたのは偶然だと?」

「もちろんです。お婆様のほうこそ空音と親しくしていたとは知りませんでした。なぜ彼女の後見人になられたのですか」

ごく普通の家庭に育ったひとりの少女を海棠家に関わらせるということがどういうことか、峰子がわからないはずはない――と柊弥は思う。ただでさえ後継問題で揺れていることは峰子にとっても悩みの種だろう。ゆえに和義から空音の詳しい報告書を渡された時、驚きを隠せなかった。と、同時に、誰かがどこかで操っているとしか思えない個人情報。こんなことができる人物など限られている。そして空音が峰子に引き取られたという事実。

「空音さんは私の大事な友人からお預かりしたお嬢さんです」

「それは、空音の祖母のことですか?」

「ええ」

「それは……」

「今はまだそれ以上のこと申し上げることはできません。ただ、お預かりしている、というだけではなく、私は空音さんのことがとても大好きだから、空音さんには不自由のない生活をしてもらいと思っているし、自分の好きな人生を歩んで欲しいと思っているの。ただそれだけですから、柊弥さんがご心配なさる必要はありませんよ」

「ですが、そう思わない連中もいます」

「そうですね。そのことももちろん考えております」

「そうですか」

空音のことに関して峰子がそれ以上話す気がないのはわかった。峰子の言葉が本心かどうかはこのときの柊弥にはわからなかったが、少なくとも海棠家に新たな火種を持ち込む気はないことだけは確かなように思えた。

ならば、話は早い。空音の人生を思うが故のことであるならば……。

「で、柊弥さんはなぜこそこそと空音さんのことを調べまわっていらっしゃったの?」

鋭い眼光は相変わらずだ。

「――空音を音大へ行かせたいと思っています。彼女には才能があります」

「ええ、それは私も存じております。この頃はこのお屋敷にあるピアノやオルガンもよく弾いていらっしゃるもの」

「では……お婆様からも」

「それは空音さんがお決めになることです」

ぴしゃり、と言い放つ峰子に、柊弥はハッとする。

「空音さんがそれを望むのであれば協力は惜しみませんよ。それにご安心なさい。進学を希望してもよいのだと、すでにお話はしてあります」

「そうですか」

「柊弥さんが未来ある若者に様々な援助をなさっていることは知っていますよ。とても素晴らしいことだと思うわ。でもあなたがここまで空音さんにこだわる理由は何でしょう?」

峰子の口調は先ほどとはうってかわって穏やかだ。海棠家の事実上トップの座にいる者の声色ではない。ただ孫の身を案じるひとりの祖母がそこにはいた。黙り込んでしまった柊弥を見かねて、峰子は続ける。

「杜若家のご息女が柊弥さんと一度お食事をなさりたいとのこと。他にも菖蒲家や梔子家からもお話がきています。どうやらあなたに直接お声をかけても無視されるだけですから、私を間にとりもってほしいとのことのようね」

柊弥ははあ、とため息をつく。

「そういったお話はお断りしていただくようにお伝えしておいたはずですが」

「ええ、私も一度はお断りしていますのよ」

「でしたらこれからもお断りしてくださればよいのです」

「柊弥さんはご結婚なさるおつもりはないの?」

これには柊弥は無言で答えた。結婚などという紙切れ一枚の契約に振り回され、不幸になってきた人間を間近で見てきては、そのこと事態に意味など見出せない。近づいてくる女は皆、柊弥のバッググラウンドに惹かれていることくらいわかる。たとえ純粋に愛のある結婚をしたからといって、純粋がゆえにこの海棠家という大きな重圧に耐え切れず病んでしまった者もいる――他ならぬ柊弥の母のように。

「空音さんは素敵なお嬢さんよ。幼い頃から苦労なさっているけれど、芯の強さと、心の優しさを持つ温かい女性ね。でも、彼女はだめですよ」

あまりにも唐突な峰子の言葉に柊弥はやや呆れる。

「……あたりまえです。空音はまだ高校生です。未成年じゃないですか」

「私が嫁いだのは16のときですよ。純一郎さんとは十以上も歳が離れておりました」

「時代が違います」

「そうかしら」

峰子は真っ直ぐに柊弥を見つめた。

「私は空音さんをお家騒動のごたごたに巻き込むつもりなどありませんからね」