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甲斐と連弾をした日から、初めて、空音は自分が歩むべき進路について揺れ始めていた。
音楽は楽しい。素直にそう思えたのだ。
次の面談までに書くように言われている進路調査書も真っ白なまま。
「空音、そういえば職業体験の単位もらえたんだね」
夕海が自分のことのように嬉しそうにいう。
「うん。事情があってのことだから、それまでの勤務態度とかレポートで評価してもらえたみたい」
「じゃあ、このままいけば調理師免許取れるね。次は実習!」
転科すれば調理師免許がとれなくなる。
改めて、自分はなんのために調理師免許がとりたかったのか、早く就職したかったのか考えなければならなかった。
放課後、帰宅しようと校舎を出た空音の目に飛び込んできたのは、校門の傍に止まった黒塗りの高級車。どこかで見たことのある人物が降りて、空音のもとへゆっくりと歩いてきたのは、他でもない、ホテルメロディアーナのオーナー海棠柊弥その人であった。
「家まで送ろう」
そう言って目の前の背の高い男は空音を見下ろした。
「あ、あの」
「分かっている。今、君が身を寄せている家に、だ」
何もかも知っているという風な言いように空音は戸惑いながらも柊弥の後ろを歩く。少し距離が開きそうになると空音の細い腕はしっかりつかまれ、完全に逃れる術を失った。大人しく車に乗せられると、そこはボックス席のようになっていて、一般的な車に比べるとかなり広い。高級車がもともとそういう作りなのか、それとも特注のものなのかは空音にはわからない。いつも和義が家まで送ってくれる車もそれなりの車のように思えたが、それとは比べ物にならないように感じて思わずぼーっとしていた。
「久しぶりだな」
「あ、はい」
声をかけられ、ハッと我にかえると目の前に座る人物を見た。まさかもう一度会うことになるとは思わなかった。確かに事情があったとはいえ、個人的事情で勝手に期間を満了することなく職業体験を終えてしまったのだ。急なことでホテル側に迷惑をかけたことは事実だ。にもかかわらず、一介の高校生である空音が、ホテルのオーナー直々にお迎えにあがってもらう理由などあるはずがない。
「あの、申し訳ありませんでした」
突然の謝罪に柊弥は驚いたような顔を向ける。
「体験させていただいている身で、急にいけなくなってしまいました。にもかかわらず修了証を出していただいて本当にありがとうございました」
「ああ、そのことはいいんだ。君の勤務態度は問題なかったのだから」
柊弥はそれだけ言うと黙りこむ。
空音もまた、言の葉を見つけられず、口を噤んだまま外の景色を眺めた。
車はどこか西洋風の建物がいくつも連なる敷地内に入っていった。そこが風蘭音楽大学だということに気づくのに時間はかからなかった。建物のひとつにその名が刻まれているのが見えたからだ。
「少し寄り道をしてもいいか」
低い声が空音に問いかけるように告げたが、おそらくは空音の意見を聞くためのものではないのだろう。空音はただ頷くとまた外の景色に意識を戻した。
建物群の中でもひと際大きな劇場のような建物の前のロータリーで車が止まり、柊弥が先におりると、空音に降りろと言わんばかりに手を差し伸べた。空音が一瞬戸惑いを見せながらも、その手をとると、すいと体が引き寄せられるように柊弥の傍に寄せられた。
「あの、ここは?」
「大学内のコンサートホールだ」
なぜ、そんなところに、という空音の疑問が伝わったのか、柊弥は君に見せたいものがある、と言う。
すでに話は通っているのか、警備員の前をすたすたと通り過ぎ広いスペースになっているエントリーホールをもなんのためらいもなく進んで、その先の重厚な扉を押し開いた。
「あ」
空音は思わず目を見開き、その瞳を輝かせた。
段々畑のように分割されている客席―――ヴィンヤード型のホールの真正面に見えたのは壮麗で粛然とした空気を纏うパイプオルガンだった。
「ここにあるのはドイツ製のものだ」
空音が頭ひとつ以上も背の高い柊弥を見上げると、その表情はどこか穏やかだった。
戸惑いながら、その視線から逃れるように再び目の前にあるパイプオルガンに目を向けると、その音を心の中で奏でてみる。何度か耳にしたことのあるその深い音色を思い出そうとしていると、静かな声が空音の耳に届く。
「弾いてみるか?」
え、と思わぬことに驚きを隠せない空音に、柊弥は微笑を浮かべている。
「こんなに立派なパイプオルガン、弾いたことがありません」
高鳴る鼓動をおさえ遠慮がちにそう告げる。
「教会で弾いたことがあるのだろう。同じようなものだ」
なにか問題でもあるのか、と言いたげな台詞に呆気にとられながらも、本心から言えば、空音は目の前にあるあまりに立派すぎるパイプオルガンを弾いてみたかった。一度触れただけの弾き方も何も詳しいわけではないはずなのに。
「オルガンシューズは置いてあるはずだ。自由に使えばいい」
空音は段になっている鍵盤の前に静かに立つと、その鍵盤に軽く触れた。ピアノとの違いは歴然だ。そもそも鍵盤の意味からして違っている。空音は以前教えてもらったように音を奏でる準備をしていく。なぜだか、どこをどう触ればいいのか身体が知っているような気がした。
―――声が聞こえる。
そのうち、ピアノとはまるで違う黝然(ゆうぜん)とした音がその場を包み込む。不思議な感覚だった。以前にも同じものを感じたことがあるように、それはあまりにも自然と空音の身体を動かした。その様子を柊弥は言葉ひとつ発せずじっと見つめていた。
どれくらい時間が流れたのか、流麗な音を遮るように扉が開いた。柊弥がそちらに視線をやり、空音もまた自分の没頭していた世界から抜け出して顔を上げた。
「よく見かける車が止まっていると思って来てみたらやっぱり君だったのか、柊弥」
明朗な声がホール内に響いた。
柊弥は表情ひとつ変えずその声の主、鳳仙甲斐を見上げる。彼が講師を務めている大学なのだから、彼がいることは不思議ではない。
「来たなら、一言声をかけてくれればいいのに。こんにちは、空音ちゃん」
「甲斐さん、この間はありがとうございました」
「なんだ、甲斐。お前……」
不審げに柊弥が甲斐を見つめると、甲斐は肩を竦める。
「怖いなぁ。俺が仕事で空音ちゃんの学校に行ったら、たまたま会えたから一緒にピアノで遊んだだけだよ」
「そうか」
「今夜は峰子氏とお食事会?俺も参加していい?」
「かまわないが」
「少し話もあるからねぇ」
言って甲斐は空音を見る。
「峰子さんをご存知なのですか?」
空音は状況がいまいち呑み込めない。甲斐は空音が峰子に引き取られたことまで知っているのだろうか。
「俺の祖母と峰子さんの旦那さんがきょうだいだからね」
「峰子さんの…」
「だからまあ、不本意ながらこの柊弥とも遠縁にあたるんだよ」
「え?」
空音はきょとんとした顔で柊弥を見た。相変わらず表情を崩さない冷たい面立ちは、何を答えるでもなく淡々と空音を見つめ返して頷いた。
「海棠峰子は私の祖母だ」
一瞬、何を言ったのか理解できなかった。
峰子が柊弥の祖母。そのあまりにも簡単なことが頭の中で整理できない。
柊弥はホテルメロディアーナのオーナーだ。ゆえに、ホテルに通っていたときには皆、オーナーと呼んでいた。空音はそれ以外ほとんど柊弥のことを知らなかったし、知る必要もなかった。
ただ、ホテルメロディアーナは海棠グループの傘下にある。そのホテルのオーナーというからにはそれなりに海棠家に関わりのある人物なのだから、柊弥が海棠家の人間だったとしても驚くべきことではない。
ただどうしてもあの朗らかな笑みを浮かべる峰子と常に表情を崩さない柊弥のつながりが想像できなかった。
しばらく呆然としている空音に、甲斐も驚きを隠せない。
「もしかして何も話してなかったの、柊弥」
甲斐の言葉に柊弥は小さくため息をはく。
「これから話す予定だった」
「ああ、それは悪いことをしたなぁ。まあ、でも――」
甲斐は空音に向き合う。
「やっぱり君は音楽の道に進む気はないのかな?」
甲斐は改めて空音に問う。
空音は無言のまま、どう答えていいかわからなかった。興味がないといえば嘘になる。けれどもきっとピアノやオルガンは弾き続けるだろう。そして、この壮大なるパイプオルガンを前にして、もっともっと弾けるようになればどんなにか楽しいだろうと思うのは正直な気持ちでもあった。
趣味で続けることと、本気で向き合うことは意味が全く違う。
「別に柊弥に頼まれたからこんなことを言っているわけじゃないよ。まあ最初は柊弥にあそこまで言わせる君に興味をもったのは確かだけれどね。でもこの間一緒にピアノを弾いて俺は素直に楽しかったよ。空音ちゃんは?」
「わたしも楽しかったです」
「だろう?別に音楽の道に進んだからプロにならなきゃいけないってことはない。ピアノや幼稚園の先生になったり、動画配信したり、作曲したり、音楽に触れる仕事をしている人間はたくさんいるからね。君が早くに自立したいなら、学びながら働く道だってあるだろう?調理師も音楽家も上を目指せばきりがない。それは同じじゃないかな」
確かに、それは甲斐の言う通りだ。
「俺はピアニストなんて言っているけれど、実のところピアノよりオルガンの方が好きでね」
「甲斐さんもオルガンを?」
「うん。ヨーロッパに留学中にオルガンの魅力に惹かれてそれからはオルガンの勉強もしてる。だから少しは役に立てると思うよ。―――だから、俺のもとで学んでみないかな?」
思いがけない言葉に空音はいつになく真剣な表情の甲斐を見つめ返した。
「音大に行くか行かないか、それはゆっくり決めればいい。君にはあと1年ある。もちろん音楽を専門に学ぶのなら短すぎる時間だろうけれど」
「甲斐」
柊弥が口を挟もうとすると厳しい表情で柊弥を制する。
「これは柊弥には関係のないことだ。もしも音大を受験するならば、専門的な勉強をしなければならない。幼少時代から英才教育を受けてきた者たちと同等に試験を受けるのだからね」
それでも、と甲斐は空音を見つめた。
「俺は君を育ててみたいと思ったんだよ。初めて、ね」
「甲斐さん」
「空音ちゃんの亡くなったおばあさまは、きっと君にやりたいことをやってほしいと思っていたはずだよ」