【蒼き月の調べ】婚約編 第2章 - 2/6

葬儀は親しい者たちだけで粛然ととりおこなわれ、その間空音は泣き叫ぶこともなく、表情ひとつ崩すことなく、16歳の若さに関わらず喪主を務めあげた。その裏には施主をつとめた峰子の支えがあったことは確かだ。

葬儀から数日後、空音が家の片づけをしていると、家の前に高級車が止まる。その車に乗っている人物は空音の知る中でひとりしかいない。

「峰子さん、本当にありがとうございました」

空音は丁寧に頭を下げた。峰子はその整然とした振る舞いににこりと微笑んで、空音の出したお茶に手をつける。

「空音さん、これから私の家で暮らしてもらえるのよね?」

確認するようにもう一度たずねられ、空音は小さくはい、と頷いた。

峰子の屋敷で目を覚ました空音は、慌しく葬儀の準備をしなければならなかった。煩わしい手続きの一切合切を請け負ってくれたのは祖母の長年の友人である峰子だった。空音にとっても親しい間柄である峰子の存在はとてつもなく大きかった。

その峰子から、一緒に暮らそうとの話があり、空音は返事を保留にしたままであったが、自分がまだ未成年で高校生であることを考えれば誰かの庇護の元にあらねばならず、その誰かがいなければ必然的に施設へ入ることになるか、そのまま高校を退学し就職せねばならなかった。

担任の須山を加え峰子との三者面談でも須山は学校もできる限りサポートするので、しきりに高校だけは卒業してほしいとそう言ってきた。今のご時勢で、何の資格ももたない中卒の女子が簡単に就職できるほど世の中は甘くは無い。

須山と峰子に説得され、空音は峰子の家で高校卒業まで生活することを決めたのだった。幸いにも峰子の屋敷は高校からほど近い。しかしながら、空音の知る峰子はまるで住む世界の違う資産家だ。

その資産家と空音の祖母がなぜそのように親しいのかも疑問だが、祖母に連れられて何度か訪れた峰子の屋敷はとても広く、歴史ある趣の純和風造りの屋敷は、庭園ひとつ見ても、京都の寺院などで見られる築山がほどこされており、完璧に手入れが行き届いているのがわかる。

部屋はいくらでもあるから、と峰子は言うし、実際そこまでの広い屋敷に住んでいるのは峰子ひとりだというから、気を遣うことはあまりないのかもしれないが、空音は気後れのようなものを感じずにはいられなかった。

一通り必要な荷物をまとめ、その荷物を運ぶ業者のことは峰子に任せることにし、家の権利のことや相続の話は峰子の紹介してくれるという弁護士を介して後々ゆっくりと話をしていこうということになった。

峰子とともに車に乗り込むと、執事の松野は扉を閉め自分は助手席に座って、運転手に屋敷に向かうように告げた。

 

「空音さんのお部屋には和洋室を用意したの。自由に使ってちょうだいね」

「はい。ありがとうございます」

私のお部屋から近いから、と峰子は嬉しそうに微笑む。常に丁寧な言葉遣いとその美しい姿勢を崩すことのない峰子は空音の憧れの女性でもある。凛とした趣を持ちながら、穏やかな優しい表情は空音を和ませてくれる。どこかで堅苦しい感じがしない?と聞かれたことがあったような気がしたが、空音はそういう風には思わない。空音自身がのんびりした性格のせいか、ゆったりと話す峰子の口調はとてもありがたいのである。

「奥様は、あの広いお屋敷で、空音さんとご一緒に生活するのをとても楽しみにしているのですよ」

松野が前の座席から空音に語ると、空音は驚いて峰子に視線を向けた。

「まあ、松野さんてば。でも本当のことなの。息子夫婦もあまり顔を見せてはくれないし、孫たちも忙しそうにしているものだから」

「みなさん、お仕事がお忙しいんですね」

「そうね。なんだか無駄に大きくなってしまって……困ったものだわ」

なにかを含んだような言いように、空音は首を傾げたがあまり深くは考えないようにした。

「だから本当にうれしいのよ」

「こちらこそ本当にありがとうございます。なんとお礼を言っていいか……」

空音が心底申し訳なさそうにそう言うと、峰子は苦笑しながら実はね、と告げる。

「私は法的に、空音さんの未成年後見人なのですよ」

「未成年後見人?」

峰子の口から出た言葉はあまり聞きなれないものであった。空音がそれはどういうものなのかストレートに尋ねると峰子はにこりと微笑んだ。

「路緒さんが生前、おっしゃっていましたの。もしものときは空音さんの後見人になってほしいと。空音さんはまだ未成年でいらっしゃるから保護者が必要でしょう。ですから空音さんは何も気兼ねなどする必要はないのです。私はいわば空音さんの親代わりですからね。空音さんが成人なさる時には遺産のお話も含め、すべてお話いたしますから」

ゆっくり、丁寧にそう言われ空音はもしかして祖母は何もかもわかっていたのだろうかと思う。それでも、いくら親しいといっても、このようなことまで頼んでよいのだろうか。

「峰子さんにはご迷惑ではないのですか」

「まあ、まさかそんなことあるはずがないでしょう。私は空音さんが幼い頃から知っていますのよ。都合が悪ければきちんとお断りしているわ。だから、ね。あなたはなにも心配なさることはないのよ」

何度もそう言われ、空音はやっと笑顔を見せた。

 

峰子の屋敷で生活を始めてからほどなくして新学期が始まった。

空音はもともと就職するつもりでいたのだが、担任の須山と峰子には進学することまで強くすすめられて、新学期早々悩ましい顔で登校する羽目になってしまった。

2年のこの時期にはすでに進路調査も行われ、3年のクラス替えに影響する。調理科にいれば基本的にクラスに変更はないが、進学希望の生徒は普通科などに転科することも可能である。しかし人数の調整もあり、必ずしも希望通りになるとは限らない。

 

空音は久しぶりにカフェテリアに置いてあるグランドピアノに触れた。

ホテルに通っていた時、柊弥がくると必ずピアノを弾いていたが、それ以来だった。

峰子の屋敷ではオルガンもピアノも自由に弾いてもいいと言われていたが、気分的に弾く気になれなかった。

音楽は小学校の頃から好きな科目だ。ピアノを弾くのもオルガンを弾くのも、エレクトーンを弾くのも好きで、友だちや先生からリクエストされれば、なんでも弾いてきた。

けれど、空音はピアノ教室に通っていたわけではない。

この学校の音楽科の生徒のレベルは高い。それは空音も知っている。学園祭や音楽祭で披露される演奏はよく観に行くが、コンクールに入選している生徒は多数いる。吹奏楽コンクールでも常に優勝候補校に名を連ねている。

本格的に学んだことのない人間が、そんな世界でやっていけるとは思えない。

鍵盤に触れるとポーンと心地よい音が響く。

放課後の時間にもかかわらず、カフェテリアにはあまり人がいない。普段なら、勉強している生徒や会話を楽しんでいるグループがいたりするが、文化祭が近いからか、皆準備に忙しいのかもしれない。

これくらいの人数なら気兼ねする必要はない。

空音の脳裏には一人の人が浮かんだ。

祖母のことで最後まで通うことができなかったホテルの職業体験。そして次に会う時に弾くことを約束していた曲。

空音は何も考えたくなくて夢中で指で動かした。

リストがヴァイオリン協奏曲から影響を受けたとされるこの曲は超絶技巧曲としても有名な誰もが知る作品。さすがの空音も練習しなければ柊弥の前でまともに弾けそうになかった。

「憂鬱なラ・カンパネラ」

その声に空音は我に返った。ホテルで一度だけ会った端正に整った顔の長髪の人物。

「と、いったところかな」

「鳳仙さん」

「甲斐でいいよ」

空音が驚いていると、甲斐はにこりと笑う。

「甲斐さん、どうしてここへ」

「今日は、音楽科のゲスト講師として呼ばれていたんだ。俺の同級生がここで教師をやっているからときどき来るんだよ」

「そうなんですか」

「空音ちゃんに会えるかな、と思ってたら会えた。これは偶然か、必然か」

意味深な言葉に、空音は首をかしげる。

「もう、会うことはないと思っていたからね。君も大きく状況が変わったようだ」

その言葉は甲斐は空音の状況を誰かから聞いて知っているようだったが、それ以上は何も言わなかった。そのかわり唐突に、ねえ、と切り出された。

「空音ちゃん、俺と一緒に連弾してみない?」

「連弾、ですか?」

「したことない?」

「一度もないです」

「じゃあ、やってみようよ。空音ちゃんの好きな曲でいいよ。クラッシックじゃなくても。あ、二台ピアノがあったほうがいいか。音楽棟に行こう、ほら」

空音が戸惑いを隠せないでいると、甲斐は笑顔でぐいぐいと腕を引っ張る。

「でも、わたし音楽科の生徒じゃないので」

音楽科以外の生徒の立ち入りが禁止されているわけではないが、調理科のある建物とはかなり離れているので、空音は一度も行ったことはない。

「気にしない、気にしない。―――空音ちゃん、楽譜があればなんでも弾けるんだっけ?」

「それほど難しい曲でなければ大丈夫だと思います」