4
相変わらず流麗な調べに、柊弥は感嘆の息を吐く。と同時に扉が開いて、快活な拍手が響いた。
「さすが、柊弥が絶賛するだけのことはあるね」
柊弥とさほど年の変わらないその男は優美な笑みを空音に向けた。金色に染めた長い髪を無造作に束ね、どこか芸術家風情が漂う。
「甲斐、いきなり入ってくるな」
「ひどいなぁ。自分から呼びつけておきながら。でも稀にみる収穫が得られたから、まぁいいか」
いたずらっぽく笑うその後ろから、和義も現れた。
「中断しないように心掛けたつもりですが」
突如現れた男たちに空音は困惑を隠せない。長身で端麗な面立ちの三人の男が並ぶとその迫力と威圧感は半端ない。空音が硬直していると、優美な男が空音の前に跪き、ほほ笑んだ。
「初めまして。鳳仙甲斐です。今は音大で講師をしています。よろしくね」
「―――よろしくお願いします」
空音はつられて頭を下げるが、いまいちこの状況が理解できない。
柊弥は大きくため息をつくと、その険しい表情を空音に告げる。
「空音、音大に行く気はないか?」
空音は怪訝な顔をして首を傾げた。
「本格的にピアノを学ぶ気はないか?」
「どうして、ですか」
そもそも、空音がこのホテルに通っているのは、学校の職業体験の一環だ。そしてそれは高校で調理師免許を取得するためである。
「君には音楽の才能があるんだよ」
「私は、大学に進学するつもりはありません」
はっきりと、そう言葉にして空音は和義を見た。いつも柊弥との会話の中で助け舟を出すのが和義だった。
「そうですよね。突然そのようなことを言われても、空音さんも困惑するでしょう。空音さんが調理科に所属していることも存じ上げております。そのうえで、もう一つの選択肢として考えてみてほしい、ということなのです。何度か聞かせていただいた空音さんの演奏は私も素晴らしいと思います。ここにいる鳳仙甲斐はピアニストです。プロでもあなたの演奏は将来性があると見込んでいる。常々、私共は才能のある若い人材に投資を行う事業もあります」
「でも」
「返事を急ぐ必要はありませんよ」
空音は静かに視線を落とすと、何かを深く考え込むように目を閉じる。
そして顔を上げると柊弥を見た。
「ピアノは嫌いではないです。私は本当はパイプオルガンの方が好きなんです」
「パイプオルガン?」
三人の大の男たちが唖然として空音の発言に耳を傾ける。一番に切り替えて反応したのは甲斐だ。
「空音ちゃんは、ピアノよりもオルガンが好きなんだ?どうして?」
「歴史の重さが音に現れるからでしょうか?初めて聴いたときは本当に感動したので」
「パイプオルガンを弾いたことは?」
「教会で弾かせてもらったことがあります」
「パイプオルガンなら弾きたい?」
甲斐のその質問には空音は答えなかった。
「俺のいる風蘭音楽大学にはオルガン専攻科があってね。専門的にパイプオルガンの勉強ができるよ。何人かオルガニストも出ているしね」
「大学……」
「大学には行きたくない?」
「大学は4年もあります。わたしは早く自立したいです」
「と、本人はこう言っているけど、柊弥?」
柊弥は憮然とした様子で、空音に一瞬目をやると、萎縮するでもなくどこか強いまなざしが返ってきた。
挑戦的ではない。それは強い意志の表れだ。
「空音さん、お時間は大丈夫ですか?」
あ、と声を出して腕時計を確認した空音は思いっきり立ち上がる。
「お送りいたしますよ」
「大丈夫です。電車で帰ります」
「こちらが無理を言って時間を延ばしてもらったのです。薄暗い中、女子高生をひとりで歩かせるわけにはまいりません」
和義の笑みに空音は思わず柊弥を見る。柊弥が黙ってうなずくのを確認すると、頭を下げて、大人しく和義に従って部屋を出ていった。
それを見送ると、甲斐は柊弥に向き合う。
「女子高生にしては大人びているね。なんだか中身が釣り合っていないところが可愛らしいけど。ハーフかな」
「おそらくクォーターだ」
「おそらく?」
「まだ確認中だ。いろいろと複雑な家庭のようだ」
「へえ。柊弥がそこまで調べるなんて珍しいね。確かに興味深い子ではあるけど」
「お前も和義も余計なことばかり言う。―――で、どう思う?」
「才能あるなしなんて柊弥の方がわかっているから俺を呼んだでんしょう?本人はピアノよりもオルガンの方が好きだと言っているし、そもそも本格的に音楽をやる気はなさそうだし。いくら才能があったってやる気のない子に無理やりやらせるには厳しい世界だよ。それくらい柊弥にもわかってるでしょ」
「ああ」
頷きつつも諦める気配のない男に甲斐はおや、と首をかしげる。
「まさか、惚れたの?」
ストレートな物言いに、柊弥は眉間を寄せる。
「女子高生にか?馬鹿な」
「年齢は関係ないと思うけどねー」
言って、興味深そうに柊弥の様子を伺うと、柊弥は何も応える気はないようで黙り込んだ。これ以上会話をする気がないようだと悟ると、甲斐も「じゃ」と言い残して部屋を出ていった。それを視線だけで見送ると、柊弥は小さくため息をこぼした。