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柊弥は会議録を眺めながらこの後のことを考えた。
―――空音に会うのを楽しみにしている。
空音に会いたいのか、空音の弾くピアノの音色を聴きたいのか、どちらかといえばどちらもだ。空音を取り巻くすべてが柊弥にとっては心地よい。これまで感じたことの無いような、癒しともいえるべき空気がそこには存在している。
「愚かだな」
柊弥は自嘲気味に呟いた。
トントン。
ドアをノックする音に、さっと顔を引き締めた。
「入れ」
冷淡な声と同時にガチャリと重たいドアを開いたのは柊弥の第二秘書の高田栄子だ。
「来月の出張の日程のことですが」
「ああ」
出張でのスケジュールを説明する栄子からはほのかな香水のかおりが漂う。髪をひとまとめにし、眼鏡をかけた地味な容貌に似合わず、豊満な胸を強調させるようなブラウスを身に着け、短いタイトなスカートをはいている。
柊弥のスケジュールを管理することが主な職務である栄子に服装の指定はないが、最近秘書となったばかりの彼女からは気があるようなそぶりを向けられ、必要以上の会話をすることはあえて避けた。
「―――とのことです」
「わかった」
柊弥は短く返事をすると、用が済んだらさっさと出ていけと言わんばかりにパソコンのモニターに視線をやるが、栄子はまだ去る気配がない。
「まだなにか？」
冷然と告げると栄子は故困惑したように頭を下げる。
「申し訳ありません。失礼いたします」
栄子が部屋を出ていくのと入れ替わりに、和義が忍び笑いをしながら入ってくる。こちらは特に挨拶などない。
「どういうつもりなんでしょうね、彼女。―――頼まれていたものです。どうぞ」
「ああ」
意味深な言葉は無視し、和義から手渡された書類に柊弥は表情一つ変えず目を向けた。
「こちらは随分とご執心で」
どこか面白げに言う和義には目もくれず、柊弥はその報告書を読み進めた。
柊弥がからかいには応じないとわかると、和義は真面目に話し始める。
「やはり経済的な問題じゃないかな。高校で調理師免許をとってしまえば、高卒でも飲食業に就職はできますからね」
「両親がいないというのはどういうことだ？」
「母親は亡くなっていて、父親の方は離婚後音信不通。わかるのはそこまでです」
杉山空音の調査書によると、空音は現在祖母と二人暮らし、両親は幼い頃に離婚、離婚後母親と共に祖父母のもとに身を寄せるが、まもなくして母親は亡くなっている。
祖父も早くに亡くしているが、高齢のドイツ人男性が時折二人の元を訪れている。
祖母が飲食店の経営に関わっており、金銭的に苦労している風ではないが、この家庭環境から考えると、空音が早くに就職をして自立したがっているのは明らかなようだ。
「複雑な家庭環境だな」
「もっと詳しい情報が欲しいなら調べさせるけど、少し時間がかかりそうです」
「かまわない」
「珍しいですね。彼女に才能があるとはいえ、あなたがそこまで―――」
「和義」
「あー、はいはい。余計なことでしたね。まぁ柊弥の普段見られない表情が見られてなかなか興味深い――っと怖い怖い。じゃあ私はこれで退散します。”姫君”によろしくお伝えください」
和義が意味深に笑みを残して退室していく姿を見ながらため息をつく。
―――何が姫君だ。
柊弥を前にしても動じることのない洗練された振舞いは、決して男の気を惹くために作り上げられたものではない。幼い頃からそうしつけられていたのだろうが、あくまでも自然に振舞いながら高飛車なところもない。年齢の割に大人びている雰囲気を持ちながらも、中身はやはり現役女子高生らしいところが多々見られ、時に幼い子どものような面もある。
柊弥にとって初めて出会うタイプの人間であることは確かだった。