２
翌日、柊弥は空音を最上階のオーナーズルームの一室に呼び出した。いきなり支配人から声がかかり、そのままわけもわからずやってきたのであろう、少しだけ緊張気味に入ってきた。しかしその立ち振る舞いはどこで学んだのか一貫して優美だ。
「突然呼び出してすまない」
柊弥がそう声をかけると、空音はいえ、と小さく答えた。
「いきなりで申し訳ないがピアノを弾いてみてくれないか？」
「ピアノ？」
空音はぽかん、と柊弥を見返し、続いて、柊弥の横にあるグランドピアノに視線を移した。
「このピアノ、ですか」
「そう、弾けるだろう？」
空音はじーっと目の前にあるピアノを見つめた。
無言の間が流れ、柊弥は不審に感じて空音の様子を伺っていた。
「あの、私はピアニストではありません」
やっと口を開いたかと思えば、まっすぐに柊弥を見つめるとそう言った。
「昨年の秋ごろ、結婚式で弾いているのを見た」
「結婚式」
空音はきょとんとしてしばらく何かを思い出すように首をかしげ、ああ、と思い出したように空音の表情が明るくなる。
「麻衣ちゃんの結婚式で、はい、弾きました。―――けれどどうしてですか？」
柊弥の威圧などまったく通用していないのか、空音はなおも不思議そうに尋ねる。
「もう一度聴きたいと思っただけだ」
理由を聞かないと弾く気のなさそうな空音に、柊弥は正直に答えた。すると、空音はピアノに近づいて確認するように柊弥を見上げた。柊弥は静かに頷くと、空音は椅子に腰を下ろす。
「曲は、なんでもいいですか？」
「ああ」
空音はその場所に漂う研ぎ澄まされた空気をかきけすように鍵盤に触れた。その表情は一瞬で別人のように変化する。それは間違いなくあの日柊弥をとらえた秀麗な横顔だった。
まるで水面のように繊細に反応する空気に柊弥は一瞬でひきこまれた。
―――そうだ、この感覚だ。
プロのピアニストの演奏なら何度も聞いてきた。その柊弥を惹きつける腕をこの少女は持っている。上手いという言葉では表せない。テクニックでいえばプロにはもちろん劣るかもしれないが、そんなものは練習すれば身につくものである。空音はそういった技巧を超越した何かを持っている。
一曲弾き終えた空音は、はーっと思いっきり息を吐く。
「今のはなんという曲だ？」
有名な楽曲なら柊弥は知っているはずだが、それは自分の知るものではなかった。
「『Blaue Mond』、蒼き月の調べ、とわたしは言っています」
「作曲は？」
「祖父、だと思います」
「祖父？」
「もう亡くなっているのですが」
「そうか」
空音が口を噤むと柊弥はそれ以上は聞かなかった。
「他に弾けるか？」
「……童謡なら、なんでも弾けます」
おっとりとほほ笑んで応える空音に、童謡、とぽつりと口にした柊弥は眉間にしわをよせる。
「君はどこでピアノを習っているんだ？」
「学校で、音楽の先生に少し教えてもらいました」
「それだけか」
「家ではリードオルガンを弾いています」
それを聞いて柊弥は正直驚いた。専門的な指導も受けず、ここまで弾けるものなのか。
「高校では調理科と聞いたが、音楽の方面に興味はないのか？」
空音はまたしてもぽかんとして柊弥を見上げた。なぜ、そのようなことを聞かれているのかわからないといった風だ。―――そんなに変なことを聞いただろうか。
「高校卒業後に進学の予定は？」
今度は質問を変えてみると、ないです、と一言返ってきた。
「ピアノを本格的に学びたいと思ったことはないのか？」
「ありません。音楽は趣味で続けられるので」
やはりきっぱりと言い切る空音に柊弥は呆れを通り越した。あれほどの才能を持ち得ながら、いや、自分の才能に無頓着なだけなのか。
「時々、ピアノの演奏を聞かせてほしいのだが」
「それは、かまいませんけれど」
どこか乗り気ではなさそうな空音に強引に約束をとりつけ、それからは、柊弥がホテルを訪れる度に、空音は仕事を中断して、柊弥のためにピアノを演奏することになった。