【蒼き月の調べ】婚約編 第1章 - 1/5

「お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします」

濃紺のブランドスーツに身を纏い、寸分の乱れもなくネクタイを締めた隙ひとつない男―――海棠柊弥は、隣のテーブルに座る男女二人に注文をとりにきた端麗な笑顔の少女に双眸を見開いて凝視した。

これまで運命やら奇跡などという非現実的なことを信じたことはない。だが、これは偶然と呼ぶにはあまりにも無理があった。

杉山空音。記憶と違うことなく記されていたネームプレートを見て確信する。と同時に、あの日見た光景がもう一度鮮明に脳裏をかけめぐった。

あの日、柊弥は友人の結婚式に出席していた。柊弥の立場かたすればよくある予定のうちのひとつで、いつもとたいして変わらない順序で進められるその神聖なる儀式は、仕事の一部で顔を出しているようなものだった。

いつもなら披露宴が終わった時点でさっさと席を後にするのだが、とっさに彼女の姿を目で追った。そして、さらに信じられないことに、その日入っていた予定をキャンセルし、二次会にまで顔を出してしまったのである。

にもかかわらず、目当ての彼女には会うことはかなわず、自身の愚かな行動を悔いただけだったが。

調べれば難なく手に入れられるはずの一人の情報を、あえて得ようと思わなかったのは、しょうもない矜持だったのかもしれないし、女一人に心を乱された自身を律するためだったのかもしれない。

しかし、秀麗な横顔の少女は柊弥の記憶から消し去ることはできなかった。その少女が今、手の届く場所にいる。

空音はあの日とは違う緩やかな笑みを浮かべて尋ねられたメニューひとつひとつを丁寧に説明している。その優美な声がまた柊弥の心を激しく揺さぶった。

午前中にこの海棠グループの所有するホテルで会議を行い、その後ルームサービスを、と勧めた秘書の和義に、従業員の視察もかねてレストランで食事をしよう、と言ったのは柊弥自身だった。

なぜ、と言われるまでもなく、柊弥はいつもそうしてきた。オーナーという名だけの立場ではなく、その目でしっかり従業員を把握しておかなければならない。それは尊敬する亡き祖父の教えでもあった。

柊弥はすぐに厨房を取り仕切る料理長を呼び寄せ、彼女のことを尋ねる。突然の呼び立てに何か粗相でもあったのか、料理が気に入らなかったのかと不安そうな料理長は、なぜそのようなことを尋ねられるのか困惑しながらも、空音が学校の職業体験で学んでいることを伝えた。それを聞いた柊弥はすぐに空音を自分のもとへ呼ぶように告げると、彼女は急ぐでもなくゆっくりと歩いて近寄ってきた。確かに先ほどは気づかなかったが胸元のバッチには『職業体験中』と書かれている。

「君は高校生だとか」

柊弥はそう声をかけると、空音はまっすぐな視線を彼に向けた。少し異国の血でも混じっているのか髪は自然な栗毛、目は明るい紺色み見える。

―――高校生だったとは。

それはどこか落胆ともいえるような複雑な心のつぶやきだった。

「夏休みの期間、職業体験の一環で勉強させていただいております。至らない面がございましたら申し訳ありません」

高校生である若い少女が目の前の人物がこのホテルのオーナーだと知っていて、このように落ち着いて応えられることに柊弥は少しばかり感心した。

ホテルメロディアーナでは特定の学校の生徒のみ、職業体験で受け入れている。それは柊弥も周知のことだ。未来ある若い学生がホテル業界に興味をもてるように、という思いもあった。しかしながら、多くの様々な客がいる中で、接客対応がしっかりとできる人間でなければならない。ゆえに学校の推薦を受け、厳しい面接を受け、なおかつ研修を受けなければ客の前に出ることはできない。

それをクリアできるのは本当にわずかである。

「ここでの勤務はどうだろう」

「みなさんに親切にしていただいております」

「なにか意見があれば教えてほしい」

空音は思わず首をかしげ、おっとりとほほ笑む。

「……オーナーは笑顔の方が素敵だと思います」

その瞬間、柊弥の片方の眉が吊り上がり、一瞬にして周囲の空気が凍り付いた。

向かいに座った柊弥の秘書、和義は珍しげにその様子を観察していた。

「私もそう思います」

小さくクスリと笑ってそういう和義を一瞥すると小さくため息をついた。

「善処しよう」

柊弥の心は複雑だった。空音の声をもう少し聞きたいと思ったばかりにくだらない質問をしてしまったのだが、あまりにも予想外の返答だった。

当の空音は先ほどと変わりない純粋な笑みを浮かべている。

柊弥は空音を下がらせ、料理をきれいに平らげた。

ハラハラしながら様子を伺っていた支配人と料理長に労いの言葉を告げると、颯爽とホテルを後にし、用意されていた黒塗りの高級車に乗り込んだ。

 

「和義、今回受け入れている生徒の名簿を出せ」

柊弥は車が動き始めるとすぐに和義に指示を出す。

「名簿ですか?そういえば先ほどの女子高生は勇気があったなぁ。あなたが誰だか知っているでしょうに」

柊弥の様子を伺うように、それでいてどこか楽しそうに話す和義に、さっさと言われたことをやれと言わんばかりに一瞥する。

「ハイハイ、名簿ですね。すぐにデータを出せばいいんでしょう」

和義はタブレットを取り出すと、職業体験に関するデータを開いた。そこに今回受け入れている学校と生徒の名簿がある。

「これでよろしいですか?」

「ああ」

柊弥は今回の受け入れ名簿から学校からの提出されている生徒の個人情報を閲覧する。これに関しては柊弥の許可がなければ簡単には見られない。

『月ヶ原学園調理科2年生』

ふいにひとつの疑問がわく。

柊弥が空音を初めて見たのは結婚式でピアノを弾く優雅な姿だ。その堂々たる容姿にとらわれただけではない。あの時の、プロには引けをとらない流麗な演奏に惹かれた。

なぜ―――?

なぜ調理科なのか、と。