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退院してから2週間後、やっと学校に行けることになった空音は少し緊張気味に登校した。ロータリーのある校門から車の送迎で、学校関係者以外入れないようになっている入り口からだ。
学校で、あれこれ騒がれるのでは、と柊弥が心配していたが、特に大きく騒がれるようなこともなく、クラスメートたちも普通に迎えてくれた。そこには担任の須山始め、学校の教師たちの配慮あってのことだろう。
空音が休んでいる間に学園祭も終わり、お祭りモードだった校内はいつの間にやら期末試験に向け、ピリピリとした空気が流れていた。ある意味、生徒たちは自分の試験の行方の方が心配なのである。
そのことを週末に海棠家を訪れた柊弥に話すと、心底安堵していた。
「冬休みはいつからだ?」
「12月25日からです」
「そうか」
あの日以来、空音はふたりきりになると緊張して顔を合わせづらくなった。一応婚約者ということを了承してしまった為に、これまでの関係がまた違ったものになるのだろうか、などあれやこれやと考えてしまう。
けれども目の前の柊弥は特に変化のある様子でもなく、平然としている。軽く触れるだけだったファーストキスのことも全く気にしていないようで、空音は自分だけがあまりにも子どもなのだと切なくなる。
「年明けに海棠家主催のパーティがある」
「はい」
柊弥は真剣な眼差しで空音を見つめた。こういうときは大事な話をするときだと、空音もわかるため、持っていたシャープペンをテーブルの上に置いた。
「空音は高校生なので公の場には顔を出さなくてもいいよう配慮するが、新年のパーティだけには出席してもらいたいのだが」
「はい…」
「その場で正式に婚約発表ということになると思う」
最後には空音の顔色を伺うように言うので、空音は微笑んだ。
「柊弥さんにすべておまかせします。でも、柊弥さんのご両親はご存知なんですか?」
「ああ。今は海外にいるが、近々帰ってくる。その時に会えればいいと思っている」
どこか難しい顔をしている柊弥に、空音は少し心配になる、柊弥の口から両親の話を聞いたことは一度もない。峰子から海外に在住しているのだと聞いたことはあったが本当に知っているのはそれだけだった。
「反対されているんですか?」
「それはない。ただ、空音を少し驚かせてしまうと思う」
どういう意味か分からず空音は首をかしげたが、柊弥が口を閉ざしてしまったので、空音も深く追求はしなかった。
「で、今空音は何をしていたんだ?」
「勉強です。来週から期末テストだから」
柊弥がくるというので、リビングルームのようになっている部屋のテーブルの上で勉強をしながら待っていた。峰子がいるときや、和義や甲斐が訪れるときもだいたいこの部屋で出迎えることになっているからだ。
使用人の女性が常にいてくれるので、私室で迎えてまた柊弥に叱られることもない。
この海棠家本邸はかなりの豪邸で、空音にもいくつくらい部屋があるのかいまだわからない。
にもかかわらず峰子は広い豪邸の一部しか使用しておらず、それにならうように空音も生活する範囲は狭い。
「期末テストか……」
「どうかしましたか?」
「いや」
柊弥が苦笑しているのを見て、空音は不思議に思う。なにかおかしなことを言ってしまっただろうか。
「柊弥さんて数学得意でした?」
「まあ、それなりにできたとは思うが」
それを聞いて、空音はおそるおそる数学の問題集を目の前に取り出した。
「これなんですけど」
たぶん、なにかしていないと空音自身も落ち着かないのだ。勉強をしていたのだから、その続きをすればいい。柊弥は問題集を凝視する。
まさか空音に会いにきて数学を教えるはめになるとは夢にも思っていなかったのだろう。どこか複雑気味にペンをとると、空音に向き合う。空音はホッとしたように、姿勢を正した。
ふと思い出したように柊弥が顔を上げ空音に問う。
「空音、携帯の番号を聞いておいてもいいか?」
「携帯?って携帯電話ですか?」
「ああ。連絡を取るのに知っておきたいのだが」
「もってないですよ」
「じゃあ、ひとつもたせるから――」
「だめです」
柊弥の言葉を最後まで言わせず、空音は両手をぶんぶんと振ってものすごい勢いで拒否をする。
「わたし、全く扱えないんです。電気とか機械とかぜーんぶ」
「いや、機械というか、電話をかけたり受けたりするくらいなら誰でもできるだろう」
「わたしは出来ないんです」
はっきりきっぱりと言い切る空音に柊弥は唖然としている。
「では今まではどうしていたのだ」
「家の電話ですよ。受話器をとることはできますよ!」
自信満々に言うが、それほど自慢することではない。
空音は家電類に嫌われているのか、なぜか扱えない。教わってても覚えられない。幼い頃からそうなので、もうあきらめている。
「空音は調理師を目指していたのだろう?オーブンや電子レンジを使うこともあっただろう?」
「はい。でも先生が触っちゃだめだっていうので、誰かがいつもやってくれていました」
「そうか」
柊弥は複雑そうな表情をしていたが、空音にとって重要なのはそこではない。
「柊弥さん、この問題この公式を使うと……」
「ああ、それはこっちの公式を使えばいい」
目の前にある期末試験の方が重要なのである。
「こういう文章の問題はなにかしら書いておけば点数がいくらかつくはずだ。答えが出なくても途中まで計算式を記入すればいい」
「そうなんですか?」
「ああ。先生は何も言わないのか?」
「言ってたかもしれないんですけど、数学の先生はしゃべるのが速くって…」
「なるほど…。まあ、音楽科の3年に入れば数学はなくなるだろう?」
「授業数は減りますけど、一応あるみたいです。国語と外国語と数学は必修です」
「そうか。受験対策かな」
「はい」
「空音は理数系が苦手か。―――わかりやすいな」
柊弥にずばり言われ、空音は口を軽くとがらせる。
「誰にでも得手不得手はあるものだ」
「でも、柊弥さんはなんでもできたって、宮田さんがおっしゃってましたよ」
「そうでもないと思うが、苦手なものを苦手なように見せない努力はしていたな」
「そうなんですか?」
柊弥は頷くだけで特に語らなかったが、完璧そうに見える柊弥にも苦手なものがあったのは意外に感じられた。
「わたしも苦手意識ばっかりもってちゃダメですよね」
はーっと大きくため息をつく空音を見ながら、柊弥は口を開く。
「空音は今のままでも十分魅力があるのだから、気にしなくてもいい」
あまりにもストレートな物言いに、空音の頬が真っ赤に染まる。
柊弥は優しく微笑むとそのまま空音の唇に口づけた。