1
「調理科から音大か、前代未聞だな」
空音の進路調査票を眺めながら担任の須山はそう言って笑った。その顔には憂いはない。
「3年は音楽科への転科で話をすすめてもいいんだな」
「……はい」
私立月ヶ原学園は普通科と多数の専門科コースからなる高等学校では珍しいマンモス校だ。多くの著名人や有名人を輩出していることでも知られ、そのカリキュラムは他校に比べても大きな違いがあると言われている。そのひとつがこの転科制度だろう。やりたいことが途中で変わったときに進路変更ができる制度を整えている。もちろん簡単にできるわけではなく、能力や経験を考慮し、面談を何度も行いながらその進路を決定していくが、一度入ってしまった科を変更できないほとんどの高校に比べれば、生徒たちにとってみれば将来の選択肢が広がることは確かであった。
空音が調理科のある高校へ行きたいと告げたとき、祖母はこの月ヶ原学園をすすめた。それは空音が進路変更したくなったとき、いつでも変えられるようにとそこまで考えてのことだったのか、ただ単純に自由な校風によるものだったのかはわからない。
「がんばれよ」
須山は最後にそう言って空音の肩をぽんとたたいた。
それから空音の一日は学校とレッスンとで埋め尽くされることになる。学校でも休み時間のほとんどは楽典の勉強に費やした。甲斐から音楽理論のテキストを渡されていたので、空音はそれを眺めて過ごす。時折友人たちとの会話を楽しんだりもしながら、学校生活を送った。
学校が終わるとまっすぐに海棠家に戻り、オルガンの練習をする。空音が幼い頃から弾いていたものではなく、音大受験で実際に弾くオルガンと同じものである。これはもともと鳳仙家で使われないまま置いてあったものを甲斐が空音のために海棠家に運ばせたもので、空音は自由に使えるようになっている。空音の希望するパイプオルガンはオルガン専攻科パイプオルガンコースになるため、規定のオルガンでの受験となるのだ。甲斐はほとんど毎晩のように海棠家を訪れ、空音のレッスンに付き合ってくれるようになった。
「甲斐さん、こんなに毎日お付き合いくださって大丈夫ですか?大学の先生ですよね」
「ああ、大学はね、非常勤講師だから、毎日行ってるわけじゃないんだ。それに俺はもともと放蕩息子だから。弟子を見つけて指導に奮闘しているって周囲は大喜びしてるよ」
「放蕩?」
「鳳仙家の三男で自由の身だから、好き放題やってたってこと」
鳳仙家といえば何人も有名な音楽家を生み出した音楽一家である。
「そういえば、柊弥が時々帰ってくるようになったんだって?」
「あ、はい」
あの日、柊弥の前で大泣きしてしまい、次に会ったときにはどんな顔をすればよいのか、と悩んでいた空音だったが、柊弥が至って普通に接してきたので、空音も何事もなかったかのように接している。柊弥は時折顔を見せ、一緒に食事をして出かけていくこともあれば、泊まっていくこともある。ここは海棠家の屋敷なので柊弥が帰ってくることは普通だろうが、峰子の話では空音がこの屋敷で世話になるまではほとんど帰ってくることなどなかったという。
そもそも空音も最近知ったのだが、海棠家の土地はあまりにも広い。今、峰子と共に住んでいる大きな屋敷の他にもいくつか建物があり、敷地内を車で少し移動したところにはヘリポートなどもある。昔は海棠家の一族が敷地内にそれぞれ邸宅を持っており、生活をしていたのだというが、今この敷地に住んでいるのは峰子と、敷地内の手入れなどを行う使用人たちだけだという。
「尚弥は相変わらず自由にしてるみたいだけど」
「尚弥?」
甲斐の口から聞きなれない名前が出てくる。
「柊弥の弟だよ。聞いてないかい?」
「聞いてないです。弟さんがいらっしゃったんですね」
「ああ、ここにはほとんど顔も出さないし、海棠家の集まりにも滅多に出てこないから、もしかすると会える可能性の方が少ないかもしれないけど」
「そうなんですか」
改めて空音は柊弥のことをまだまだ知らないのだということを思い知らされる。弟、というからには柊弥と似ているのだろうか?空音には兄弟がいないため少し不思議な感じがした。
「甲斐さんにもご兄弟がいらっしゃるんですよね」
「そう。優秀な兄貴がふたりね。一番上の兄貴は海外のオケで活躍中。二番目も公演やらなんやらで世界中を飛び回ってるよ」
「すごいですね」
さすが鳳仙家である。
「それにしても、柊弥は空音ちゃんが可愛くてしょうがないんだね。あの男にしては珍しいことだ」
空音はふと柊弥の顔が浮かんだ。可愛がってもらっているようには思えない。
「柊弥さん、いつも難しい顔してますよ?」
「あはは!だよねえ。空音ちゃんは柊弥が怖くない?」
難しい顔をしているけれど、怖いと感じたことは一度もない。
「……とても優しいです」
「優しい?あいつが?」
「はい」
「へえ、そんなこと言う人初めてだよ」
「そうですか?」
「うん。怖いとか、冷血だとかはよく言われてるけどね。空音ちゃんは柊弥のどういうところが優しいと思うの?」
どういうところ、と問われ、空音は首をかしげた。
「……上手く言えないんですけど、感情をいつも隠しているところ、です」
「そう」
空音は自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、甲斐は満足そうに頷いた。
「空音ちゃんと似てるね」
「え?」
どこが?と言いたげな空音に、甲斐は笑ってみせる。
「空音ちゃんはにこにこしていることが多いだろう?どうして?」
「―――辛いときでも笑える強さをもちなさい、と言われたんです」
空音の脳裏にたったひとりの人の笑顔が蘇る。空音は彼の笑った顔しか知らない。
「へえ……。そうか。でもそれは感情を抑えることではないと思うんだよ。柊弥はいつもしかめっ面をしている。どうしてだと思う?」
「……わかりません」
「将来、海棠家のトップに立つ人間は、他人に感情を読まれてはいけない、そう言われて育ってるからね」
空音は続きの言葉を待って甲斐を見上げたけれど、甲斐はそれ以上何も語ることなく、さて、と言ってレッスンに戻った。
レッスン後、見送りに出た空音に甲斐はああ、と振り返って思い出したかのように言った。
「高校の音楽科への転科面談だけど、俺も同席させてもらうことになったよ」
「甲斐さんが?」
「うん、音楽科だと一応推薦人が必要だから、俺が引き受けた。いけなかったかな?」
「いえ、そんな。ありがとうございます」
「ならよかった」
空音が深々と頭を下げてお礼を告げると、甲斐は笑顔で答えてくれた。