【蒼き月の調べ】婚約編 第2章 - 1/6

「空音、ホテルの仕事は順調?」

「うん」

 

久しぶりに制服に袖を通し、教室に集まる生徒たちはそれぞれに夏休みに体験中の職業訓練の話に花を咲かせている。その日は夏休み期間中に2日ある登校日だった。

空音も例にもれず友人たちと職業体験の話をしていたが、やはり空音が通っているホテルメロディアーナは選ばれた優秀な生徒しか行くことができないため、皆興味津々だ。調理科からは空音ただひとりで、あとは普通科の将来ホテル業界への就職を希望する生徒2名だけ。周囲からしてみれば空音が一体どのようなことをさせられているのか興味があるようだったが、当の空音は頭の中でホテルメロディアーナのオーナーだという柊弥のことを考えていた。いつも高級スーツに身をつつみ乱れたところひとつない大人の男は何を考えているのか、あまり笑みを見せることもなく無表情でいることの方が多い。

「なんか急にね、ピアノを弾けって言われて」

「はぁ?」

突然空音の口から飛び出した発言に友人のひとり、夕海は思わず素っ頓狂な声を上げた。

「なんでまた」

「さぁ。よくわからないんだよねぇ」

空音にもどうしてあんなことになったのかいまだによくわからない。

いきなり柊弥に呼び出されたかと思えば、ピアノを弾けといわれ、それからは柊弥が顔を出すたびにピアノを弾いた。それはときに規定時間内の終了間際だったり、終了後だったりとまちまちではあったが、たいてい1曲弾くだけなので負担になることはない。少しでも遅くなれば柊弥の秘書の和義が家まで送ってくれた。

「空音がピアノ上手いのは知ってるけど」

クラスでの合唱や音楽祭の出し物ではたいてい空音がピアノ伴奏をつとめている。音楽科以外のクラスでは趣味でピアノを習っていたり、幼い頃から経験がある生徒が伴奏することになるため、音楽科のピアノ専攻の生徒の演奏とはかなりレベルが違う。それでも空音の演奏は音楽科の生徒とあまり差がなく、以前も音楽教師のひとりに音楽科への転科を強くすすめられたこともあった。

「オーナーがピアノ好きみたいで」

「へえ」

「でも、いつも無表情でちっとも笑わないんだよね」

「なにそれ」

「で、どうにか笑わないかなーと思って、この前『ねこふんじゃった』を弾いてみたんだけど」

ぶっ、と夕海は吹き出した。

「やっぱり笑わなくて、眉間に皺を寄せてこーんな風に難しい顔になっちゃって、どうしたら笑うんだろうね、あの人」

「いや、わたしにはそれ以前に、その状況が意味がわかんないよ」

「そう?」

あんた、一体何しに行ってんの、というように心底理解不能な状態に陥っている友人たちの前で空音はにこにこと笑っている。

そう、空音はけっこう真剣なのだ。全く笑わない柊弥をどうにか笑わせてみようと、いろいろ駆使してみるのだが、決して笑ってはくれないのである。

「うーん、何かいい方法ないかな」

「いや、だからレストランの方はどうなのよ」

「え?」

空音は言われて初めて、自分はレストランで職業体験をしていることを思い出した。

「みんな優しいよ」

「へえ、意外。ホテルって厳しそうなのに」

「そんなことはないよ。いろいろ親切に教えてもらえるし、オーナーも別に悪い人じゃないし」

笑ってくれないけど、と心の中でつぶやきながら柊弥の顔を思い浮かべた。

ふと、音大の話を持ち出されたことも思い出したが、すぐに自分には関係のないことだと頭の隅へと追いやった。そうしていると、勢いよく教室の扉が開いて、只ならぬ様子で担任教師が姿を現した。教室にいた全員が一斉に視線を向けたが、担任はただひとりの姿を探した。

「―――杉山、いるか?」

はい、と顔を上げる空音に、すぐに帰る準備をして職員室に来るように告げた。

「なにかあったの、空音」

空音は首をかしげて立ち上がった。

 

「おばあさんが亡くなられたそうだ」

 

空音が荷物を手に職員室に入ると、担任の須山はすぐに空音に近寄り、そのまま廊下へと促し、小さく耳元でそう告げた。

「病院まで送るから」

空音は無言で頷いた。祖母は今の空音にとって唯一の肉親である。それは学校では担任を含め教師たちの間では知られた話である。

須山の運転する車の助手席で、空音はただぼんやりと見慣れた景色を眺めていた。

心配げに須山が時折声をかけるが、空音は小さく返事を返すだけだった。

ふと思い出したように空音は顔を須山のほうに向けた。

「先生、わたし宿題出してない」

「今はそんなことはいいから」

呆れたように須山は言い、気になるなら今出しておくか?と続けた。空音は素直に頷くと、鞄の中から今日提出するはずだった課題を全部出して、言われた通り、後部座席に置いた。

それから空音は無言だった。整った表情はどこか遠くを見つめているようで、喜怒哀楽のどの感情も当てはまらないような、そんな表情で、何とか精神状態を保っていた。

 

空音が病室に入ると目に飛び込んできたのは祖母の長年の友人である峰子だった。

「空音さん……」

「峰子さん」

峰子は目を真っ赤にして祖母の横に座っていた。空音以外に身内のいない祖母が最も頼りにしていた女性がこの峰子である。空音のことも実の孫のように可愛がってくれ、空音もまた幼い頃から慕っている。

峰子の隣に立ち、ただ無表情でその姿を見下ろした。それと入れ替わるように、峰子は立ち上がると、空音に一礼をして病室を出て行った。

しばらく空音は呆然としていた。

「―――おばあちゃん」

小さく消え入りそうな声が零れ落ちたが、それ以上は言葉にならなかった。

今朝、笑顔で送り出してくれた祖母の顔はもはや笑みのひとつも浮かべてはくれない。ただ眠っているかのように穏やかな白い顔が空音の瞳に焼きついた。今にも目を覚まして自分の名前を呼んでもらえるような気がしたが、そんなことが起きるはずもないことも頭ではわかっている。

覚悟はしていた。

夏の初めに体調を崩し入院した日から。いや、もっと前から。心筋梗塞で倒れ、それまで営んでいた料亭を閉めることになったあの日から。いつかはこうなることを空音は心のどこかで覚悟していた。

それでも、その日はこうやってあまりにも突然おとずれる。頭でわかっていても、心は立ち止まったまま状況を受け入れることができずにいた。自分をいつも包み込んでくれていた温かい手に触れると氷のように冷たい。

ただ静かな時間だけが流れ、やがて空音はぺたんと床に座り込んだ。冷たく固い感触が祖母の手の感触と同じように感じられ、そのまま床に伏すように倒れこんだ。

 

「空音さん!」

異変を感じて病室に飛び込んできた峰子が手を差し伸べ、抱き起こしたが、空音は意識を失っていた。

「松野さん」

「ここにおります」

峰子が声をかけると、身なりのいい初老の男が現れる。

「空音さんをお屋敷までお運びしたいのだけれど」

「承知いたしました」

松野はそれから、と言葉をつないだ。

「奥様、空音さんの学校の担任の先生が待合室でお待ちです。いかがお伝えいたしましょうか?」

「まあ、それは気づかず失礼なことをしてしまいましたね。私がいいようにするわ。空音さんをお願いします」

「かしこまりました」

峰子は姿勢を正すと、表情を引き締め、病室を後にした。